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続々・桜庭一樹 読書日記
【第11回】(1/3)
2009年2月
桜庭一樹

廃墟?
【桜庭一樹写真日記◎廃墟?】 仕事場に机と本を運びこんだところで時間切れ〜。缶詰に入ったら、原稿が進むほどに日ごとに荒れ果て、いつしか廃墟写真集みたいに……。なんとかしなきゃ……。(桜庭撮影)

 道化は昨日は笑っていない。そうして、明日は笑っていない。一秒さきも一秒あとも、もう笑っていないが、道化芝居のあいだだけは、笑いのほかには何物もない。涙もないし、揶揄もないし、凄味などというものもない。裏に物を企んでいる大それた魂胆は微塵もないのだ。ひそかに裏に諷しているしみったれた精神もない。だから道化は純粋な休みの時間だ。

――「滑稽文学について」

2月某日

 じつは入籍した。
 しかし、そのまままっすぐ『赤朽葉』のスピンオフ『あいあん天使!(仮)』の缶詰に入ってしまったので、今日まで担当編集さんたちに言いそびれたまま原稿書きに追われている。でも、ずっとお世話になってる人にはもう言わなくちゃ……。
 夫はまったくちがう世界の人で、そのせいもあってか、こっちの業界では誰からも「……結婚した?」と聞かれない。でも、もう言おう……。
 原稿のほうはというと、慌しいし、いろんなことが重なって脳が焼ききれそうなのに、なぜだか順調にぱらりらぱらりらと進んでいる。『ファミリーポートレイト』の重たさが霧みたいに晴れて、気づけば毎日、紅緑村のさびれた国道を爆走している……。
 新しい仕事場は、エジプト神殿の悪夢が正夢だったかのような、吸血鬼御殿と呼びたくなるようなデカダンな部屋で、自分の、彫りの浅いアルパカ面とはちょっとにあわない……かもしれない。
 それで、夕方。
 執筆を終えて、夫と並んで近所を歩いている。わたしはいつもの、下を向いて気難しい横顔を見せる歩き方で、いつもの場所、本屋を目指している。
 と、夫の延長線上にでっかい犬のフンを発見した。危ない!

わたし「うんこがあるよ」

 ぴしりと指差し、指摘すると、夫(になった人)がはっと息を飲む。まず飛ぼうとし、しかしやめ、ゆっくりと迂回する。迂回して、ユラリともどってくる。危機は後方に去る。
 夫は、昔、犬のフンをジャンプして避けようとして踏切を誤り(早すぎた)、フン上に着地したことがあるらしい。知り合ってからも、定期的に転んで怪我をしていた。入籍直前、東京に雪が降り、わたしが二丁目のど真ん中で転んで通りがかりのゲイの青年に「大ぃ〜丈ぅ〜夫ぅ〜?」と聞かれた日(聞きながらも、立ちどまるでなく、手を差しのべるわけもなく、ただ聞いただけなのヨ〜という冷たさがなんだか心地よかった)、夫も別の場所で滑って転び、わたしは両膝をドロドロに、向こうは手のひらを血まみれにして、夜、落ち合った。
 夫は、血に濡れた手のひらを見下ろして、

夫「これはきっと、これからは地に足をつけて生きろっていうことだ」

 と、子供のような口調で言い、ふざけているのか真剣なのかの際にあるちょっと恐ろしいところ(わたしにとっては居心地がよいけど、学校の先生とかには怒られそう)に、しばし黙ってぶらさがっていた。
 しかし、地に足なんて、つくだろか……。
 でもつけようかどうしようかと思いながらこれからも生きていくのかな。どうなるのかな。
 名字が変わったことで、久方ぶりに呼吸が楽になった気がしている。断ち切った。過去の血の物語が山を越えてこの大都会まで追ってきたとしても、もう、名前がちがうからわたしをうまくみつけられないだろう。それに、夫がいるから、大丈夫……。門の前にユラユラ立ち、過去の物語からわたしを守ってくれる。
 未来の物語を、探すのだ。
 夜。みすず書房の「大人の本棚」シリーズ(好き)から出ている『太宰治 滑稽小説集』をぱらぱらとめくった。編者の木田元さんの前説「滑稽文学について」が面白くて、フンフンと鼻歌交じりに読む。
 敗戦直後。過去は苦しくて未来は茫洋となにも見えない、現在は貧しくて暗い……そんな時代、せめてすべてを笑いのめしてやろうと、面白いことをみつけては、若き日の木田さんはひたすら笑い転げていた。そのころ坂口安吾も、どこかで「笑いとはその場での超越だ」とかなんとか言ってたらしい。ほのぼのしたユーモア小説や、にんまりさせる諷刺小説ともちがって、“滑稽小説”というジャンルは、ふざけ散らして、転げまわってこの世を笑ってやるような本のこと。これまた安吾の言葉を借りると「世紀の果ての大笑い」というやつだ。
 フーン、ヘェー、と思いながら読んでて、木田さんの説明にポオの「実業家」や、ボッカッチョ『デカメロン』、バルザックの『風流滑稽譚』に続いて、チェーホフの名前が出てきたので、「あれっ?」となにかを思いだす。昨年末、ダブリンでの『ゴドーを待ちながら』の話をしてたら、誰かが「知ってる? チェーホフの『桜の園』とか『三人姉妹』もほんとは爆笑なんだよー」と言ってたなぁ。SF班K浜氏だったっけ? どうだっけ? わたしは昔、その二冊を読んで、過去と土地に縛られて田舎から出られない重苦しい女たちの話かな、と思いつつあまりよくわからなかったんだけど、あれもまた笑いどころが翻訳で消えてたのかな……?
 読み進めると、ボードレールやスタンダールの主張する「笑い論」みたいなのが出てきて、難しいんで起きあがって読む。ボードレールの論は、たとえば――すっ転んだ道化を見て笑うのは「私は転んだりしないもんね〜」という、悪魔的な優越の笑い。それに対して、グロテスクという「絶対的滑稽」があって、これは気違いじみた、度はずれのおかしさのこと。そして優越の滑稽は「模倣」だけど、グロテスクの滑稽とは一個の「創造」なのだ……。
 なるほどーと思いつつ、理屈っぽいなぁボードレールは、と顎をガリガリかく。あっ、理屈っぽいって、当たり前か、ボードレールだもん……。日本だと、井伏鱒二や坂口安吾、二葉亭四迷(もともと、父親に言われた「くたばってしまえ!」からこの筆名をつけた、と子供のころお父さんに教えてもらったけどほんとかな?)、そして太宰治などが滑稽小説の傑作を書いている。と、ようやく太宰の話になって、彼の『お伽草紙』は、民話の見事なパロディだ、と紹介してくれる。
 たとえば「カチカチ山」は、兎を少女、兎にフラれる狸を醜男に見立てていて、爆笑らしい。フンフン……と思いながら本編を読み始める。邪魔になった飼い犬を毒殺しようとする作家と、どっこいぜんぜん死なない丈夫な犬の、美談のような猿芝居のような、いっそ男と女のすったもんだのような、妙すぎる「畜犬談」を読んで、ううむ……と思う。
 道化の素顔はけして笑わない。太宰も、あくまで真顔のまま、大真面目に犬に振り回されてて、身勝手な心理描写のグロテスクさが、確かに、気違いじみて度はずれにおかしい。あっ、そういえば「太宰はすごい芸人だったと思う」と言ってた人がいたな……と思いだしながら、読み続けた。
 さっきから、傍らで、夫が、スケッチブックを開いて真顔でもって絵を描いている。笑うでも、怒るでも、泣くでもないいつもの表情で。
 静かだ……。
 やはり、静寂は我が友。
 化粧を落とした道化の顔を想像しながら、波に揺られるようにまたトカトントンの人の本の世界にもどった。



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