学校に通っていたころによく楽しんだゲームがあります。今でも、子どもたちがしているゲームです。さまざまな呼び名がついていますが、わたしたちはそのゲームを〈ゴシップ〉と呼んでいました。〈ゴシップ〉というのは、こんなゲームです。最初の人が二番目の人に小声でなにかを伝えます。二番目の人は、きいたことを三番目の人に伝えます。三番目の人は四番目の人に、四番目の人はその次に……といった具合に次々に伝えていき、最後の人は自分がきいたことをみんなにきこえるように声に出していいます。それをきいて、みんなが大笑いすることになります。話が伝わるあいだに、言葉が抜けたり、ききまちがいがあったり、よけいな言葉がつけくわえられたり、細部が抜けおちたり、意味が変わったりして、たいていの場合、最後の人が口にする内容が最初の内容とまったく違ったものになっているからです。
おとぎ話にも同じことがいえます。おとぎ話はもともと書き記された文によって伝えられるのではなく、語り手の言葉によって伝えられていました。ですから、さまざまな人がさまざまな状況で語るあいだに、内容のずれや変化が生まれました。ほら、ちょっと考えてみてください。あなたがネコにシェイビングクリームをぬりつけているところをみつかったとします。両親に言い訳をするときと、友人たちに話すときとでは、ずいぶん話がちがっているかもしれません。さらに、友人たちにする話と、当のネコになぜそんなことをするのか説明するときの話も、おそらく、ちがっているでしょう。
こんなふうに、同じ話がまったくちがう内容になることがあるのです。またときには、細部のかなりの部分が失われた結果、話のつじつまがあわなくなってしまうこともあります。
わたしが『ルンペルシュティルツキン物語』に感じたのもそれです、そう、つじつまがあわないのです。
この物語は、貧しい粉屋が王様に「うちの娘は藁から金糸を紡ぐことができます」というところから始まります。
この物語では、そもそも、粉屋がどうして王様と話をすることになったのか、なぜ粉屋はそんなことをいいだしたのか、説明されていません。いずれの場合にも、「娘が藁から金糸を紡ぐことができるなら、なぜおまえは貧しい粉屋なのか?」という言葉が王様から返ってくるのが自然だと、わたしには思えるのです。ところが、王様はそうはいわずに、「では、娘を城に寄こして、藁から金糸を紡がせよ。金を紡ぐことができたら、妃にしよう」というのです。
どんなわけがあって件の発言をしたにせよ、粉屋には、娘が実際にはそんなことができないとわかっているはずです(娘が父親に嘘をついていたらべつですが。その場合には、「今こそ娘が自分の嘘を告白するときだ」とだれしも思うでしょう)。ところが、粉屋は娘を城に連れていき、もちあわせていないとわかっている能力をみせびらかそうとするのです。わたしには、粉屋がしていることは分別のある親がすることではない、と思えてならないのです。
宮殿では、王様が娘を部屋に閉じこめて、「明日までに藁から金糸を紡がなければ、命はないものと思え」といいます。
どう考えても、将来が期待できそうな初デートではありません。
一方、娘は父親より賢いようです。藁から金糸を紡ぐことなどできないとわかっていて、心配で心配でたまらなくなるのですから。では、その娘はどうするのでしょうか? 娘は泣きだすのです。あまり生産的な解決方法とはいえませんね。
ところが、そこに小人が現われます、しかも、なんという幸運な偶然でしょう。小人には、問題解決に必要な技があるのです。「この藁から金糸を紡いだら、なにをくれる?」と小人から問われて、娘は金の指輪を差しだします。
でも、考えてもみてください。
部屋いっぱいの藁から金糸を紡ぐことができるんですよ。そんなことができるのに、なぜちっぽけな金の指輪なんか必要でしょう? わたしには、割の悪い取り引きに思えます。
ところが、小人はこの取り引きに応じて、藁から金糸を紡ぎます。
さて、王様は満足するのでしょうか?
もちろん、満足しません。
次の晩、王様は、もっとたくさん藁が運びこまれた、もっと広い部屋に娘を閉じこめて、まえの晩と同じ要求をします。「明日までにこの藁から金糸を紡がなかったら、命はないものと思え」
またもや小人が現われて、またもや娘を窮地から救います(今回は、ネックレスと交換に紡ぎます──娘にこんなに装身具を与えているとは、貧しい粉屋はどこかに秘蔵の宝でももっているにちがいありません)。そして王様は、またもや同じ要求をします。「藁から金糸を」
もう娘の装身具は尽きています。ところが、小人は、最初の子どもをくれたら、もう一度紡いでやろう、といいます。小人はなぜ子どもがほしいのかいいません。娘もその訳をききません。明らかに、娘は父親と同じくらい、分別のない親だといえます。この取り引きに応じてしまうのですからね。
だれにとっても幸運なことに、翌朝、王様はついに藁から紡いだ金の量に満足して、結婚を申しこみます。
娘は〈甘い言葉〉(なにしろ「紡ぐか死ぬか」ですからね)をかけられてすっかり王様に夢中になり、結婚の申しこみを受けます。
やがて、しあわせなカップルに子どもが生まれると、小人が突然現われて、約束の履行を迫ります。
娘はまたもや泣きだします。おそらく、べつの小人が現われて、窮地から救ってくれるのを期待しているのでしょう。
取り決めではたしかに〈部屋いっぱいの藁を金糸にするかわりに最初の子どもを渡す〉ことになっていたのですが、小人は王妃となった娘にこの窮地から逃れる方法を提案します。「わたしの名前をあてたら、子どもは渡さなくていい」というのです。
もし王妃が名前をいいあてられなかったら、小人は約束の子どものほかになにを得るのでしょう? なにも得るものはありません。まえにもいいましたね、この小人は取り引きのしかたを知らないのです。絶対に、こんな相手とはガレージセールにいきたくありません。値切るどころか、値段をつりあげてしまうでしょうからね。
さて、この物語には『ルンペルシュティルツキン物語』というタイトルがついています。タイトルに小人の名前が入っていますから、わたしたちは、〈王妃は小人の名前をいいあてるにちがいない〉と予想します。そもそも、この物語には、ほかに名前のある登場人物がいないのですから、王妃は真っ先にこの名前を思いつきそうなものです。ところが、この王国の人々はみな、あまり賢くないようです。王妃は家来を国のあちこちへ送りだして、それらしい名前をさがさせます。
運のいいことに、最後の最後に、家来のひとりがたき火のまわりでうたい踊っている小人を目にするのです。小人がうたっているのは、〈ルンペルシュティルツキンこそわたしの名前〉という一節でおわる、おかしな歌詞の歌です。なぜ小人はこんなことをしているのでしょう? なぜなら、もし小人が『クンバヤ』――ほら、キャンプファイアーでよくうたわれる歌詞が六番まであるあの歌です――をうたっていたら、それでなくても長い物語がさらに長くなってしまうからです。
なにしろ、賢くない人々が集まっている王国の人間ですから、家来は自分が目にした光景がどれほど重要な意味をもつか気づくことなく、「名前を見つけることができませんでした」と王妃に報告します。「見つけたのは、〈ルンペルシュティルツキンこそわたしの名前〉とうたいながらたき火のまわりを踊っていた小人だけです」と。絶対に、こんな男を複雑な国際交渉の担当者にしたいとは思いません。
さて、この物語では、王妃がとてもとても愚かなのか──わたしは迷わず「そのとおり」といいたいですね──あるいは、王妃が小人と非情なゲーム(小人は三回も金を紡いだうえ、最後の最後に、とんでもない取り引きから救われるチャンスを王妃に与えています)をしているのか、詳細は語られないままです。さらに、小人が現われて、名前を答える段になったとき、王妃はまず「ジョージかしら? それとも、ハリー?」と答えてから、「ルンペルシュティルツキンかしら?」とたずねるのです。
名前をあてられた小人は、当然のことながら腹をたてます。怒った小人が足を踏みならすと、宮殿の床にひびが入ります。なんとまあ、小さいはずの小人が足を踏みならしただけでひびが入ってしまうなんて。王様は、粉屋の娘に、もっと役に立つものを紡がせるべきでしたね。そう、簡単にひびが入らない床材なんかをね(ところで、不思議なことに、王様はいつのまにかいなくなっています)。それはともかく、床のひびに足をとられたルンペルシュティルツキンは怒りのあまり自分自身をまっぷたつにしてしまうのです。〈目にものみせてやる〉といった状況でたいそう機知にとんだ対応ではありませんか。
なんですって?
もしこんな作品を書いて提出したら、先生はなんというかって?
Dマイナスがもらえたら、上出来でしょうね。
もちろん、綴りに問題がないと仮定しての話ですが。
こうした疑問を自分自身に問いかけているうちに、この作品が生まれたのです。
(斎藤倫子訳)
(2005年2月10日)
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