キャプテン・フューチャーを待ちながら
《キャプテン・フューチャー全集・第5集》
『輝く星々のかなたへ!/月世界の無法者』
解説[全文]鏡 明

エドモンド・ハミルトン《キャプテン・フューチャー全集・第5集》
『輝く星々のかなたへ!/月世界の無法者』野田昌宏訳/創元SF文庫

キャプテン・フューチャー全集・第5集  〈キャプテン・フューチャー〉のことを語るとなると、長い間のSF読みは、誰もが思い出話をはじめる。面白い現象だ。
 もちろん、それぞれにちがいはあるにしろ、〈キャプテン・フューチャー〉は一人一人のSFの歴史の中で青春時代を形成しているのではないか。そして、それは日本特有の現象ではないかと思う。たとえばアメリカでは、そのようなことは起こりようがなかった。なぜか。
 答は簡単だ。〈キャプテン・フューチャー〉という雑誌が創刊された1940年という時点は、アメリカのSFが現代的なものとなる大きな変化が生まれていた時期と重なるからだ。つまり、〈アスタウンディング〉誌でJ・W・キャンベルが、ハインライン、アシモフ、スタージョンといった作家たちを世に送り出し、科学をベースにしたSF、つまり私たちが今知っているSFを生み出していた時代と重なるのだ。その時代にアメリカでSFを読んでいた人間ならば、文句なくキャンベルを支持したにちがいない。そして彼らが最も軽蔑したのは、SF的な舞台やガジェットを使うアクション・ストーリーであったわけだ。つまり、スペース・オペラである。それらはSFの可能性を殺しかねないものであった。
 もともとスペース・オペラというのは蔑称である。つまり、類型的なラヴ・ロマンスをソープ・オペラと呼び、ウェスタンをホース・オペラと呼ぶのと同じことだ。余談だが、これらの名称の構造が少しずつちがうのは面白い。ソープ・オペラはラジオのメロドラマから来たのだが、その名の理由は当時のラジオ・ドラマのスポンサーに洗剤メーカーが多かったからだというし、ホース・オペラは、カウボーイたちが馬に乗っていたところから来ている。スペース・オペラは、このウェスタンと同じような公式(フォーミュラー)で書かれているところから名付けられたわけだが、だとしたらロケット・オペラとすればいいのに、スペースとやってしまったために妙にスケールの大きさを感じさせるわけで、蔑称というよりも美称に近くなっているのではないか。ロケット・オペラじゃあね、日本でだって誰も使わないだろう。
 〈キャプテン・フューチャー〉が日本のSFにとって一つの青春時代を形成しているように見えることは、実はそのまま日本のSFにおけるスペース・オペラの肯定的なポジショニングに連なっていると、私は思っている。日本のSFからスペース・オペラ的なものを取り除いてしまうと、たとえばライトノベルは、多くのものを失うことになる。
 いや、もちろん今のアメリカでも同じことになるかもしれないが、スペース・オペラの復活は「スター・ウォーズ」以降のことであって、1920年代からはじまっているスペース・オペラとは断絶がある。
 余談だが、世界で最初のスペース・オペラ・シリーズは〈キャプテン・フューチャー〉の作者のエドモンド・ハミルトンが1928年から30年にかけて書いた〈星間パトロール〉ということになっている。E・E・スミスの〈スカイラーク〉とほぼ同時期、〈レンズマン〉シリーズよりちょっと早い。
 余談ついでに、もう一つ。日本ではライトノベルという呼称が定着しつつあるが、ニューヨークの大型書店バーンズ&ノーブルで、ティーンエイジャー向けの小説をミドル・ノベルと称しているのを発見した。一般的な呼称かどうかわからないが、悪くはない。
 さてと、〈キャプテン・フューチャー〉は長年のSF読みにとって一つの青春時代を形成していると書いたが、私にとってはどうなのか、やっぱり思い出話というのをしてみよう。
 〈SFマガジン〉の近刊予告を見ては本屋に日参する。それが1960年代の私の行動だった。『火星のプリンセス』〈レンズマン〉も〈キャプテン・フューチャー〉も、そうやって手に入れた。もっと言うならば、本屋が情報を手に入れる唯一の手段だったのだ。出版社に電話をするという手は当時でもあったと思うが、高校から大学にかけての私には、まったく思いつかなかった。ひたすら本屋に通う。考えてみると、そうすることが買う本に対する思い入れを深くしていたのではないか。だいたい新刊なんて月に1冊買えるかどうかで、貸本屋と古本屋が中心。新刊本屋はもっぱら立ち読みであり、情報を得る場所であったわけだ。
キャプテン・フューチャー全集・第4集  そうやって手に入れた新刊本は極めて貴重なものだった。〈火星〉シリーズには本当に夢中になったし、〈レンズマン〉もそうだった。読み終えるとすぐに、次は出ないのか、また本屋に通う。で、〈キャプテン・フューチャー〉はどうだったかというと、当時のハヤカワSFシリーズの〈キャプテン・フューチャー〉は薄い紙の箱に入っていたのだが、そのあたりのことは覚えているのに、最初の翻訳である『太陽系七つの秘宝』の中味については強い印象はない。
 〈キャプテン・フューチャー〉の翻訳を待ち望んでいときの気分は、本当によく覚えているのに、どういうことなのだろうか。がっかりした記憶はないし、その後も買い続けているのだから、面白かったに決まっている。が、それでも妙な違和感があったように思う。何だか、パーティの途中に入ってきて、場の雰囲気が今一つわからないような、そんな感じだったかもしれない。
 いや、それは後で考えたことであって、『太陽系七つの秘宝』を読んだ1966年当時の記憶は本当に希薄なのだ。そして、その理由が何となくわかったのは、1974年にハヤカワ文庫SFから『恐怖の宇宙帝王』が出たときだ。それが〈キャプテン・フューチャー〉の第1作だった。そして『太陽系七つの秘宝』は第5作。やっぱり初めから読まなきゃ駄目なんだよ。どういう理由があったかわからないが、あるいは、もともと1作しか訳されないことになっていたのかもしれないが、私としては、何だか損をしたような気になった。パーティの途中で入ってきた気分というのは、そのときに思ったことだ。
 創元SF文庫のこの〈キャプテン・フューチャー〉が正しいのは、発表順に刊行していることだ。それは大きな意味を持っている。
 30年代40年代のヒーローパルプの一つの特徴は、一回読み切りという形式である。一本一本が独立しているわけだ。なぜそのようなスタイルを取ったかというと、ヒーローパルプの多くは、複数のライターによるハウスネームで発表されていたケースがほとんどで、そうなると、一貫した流れをつくる方が難しく、独立した物語にした方が問題がなくなるからだ。
 たとえば〈キャプテン・フューチャー〉を出したスタンダード・マガジン社が、そのモデルと考えていた〈ファントム〉シリーズは、どのエピソードも互いに関連を持たない典型ということになっている。もちろん主人公のリチャード・カーティス・ヴァン・ローンは共通だし、サブキャラクターも変わりはしない。が、ヴァン・ローンの性格は、かなり変動があったりする。時にはメイン・ストーリーやアイデアがそっくりなものも現われてしまう。
 ついでに言っておくと、〈キャプテン・フューチャー〉が〈ファントム〉をモデルにしているというのは、スペース・オペラで探偵ものをやろうというモチーフ・レベルのことではなかったかと思う。主人公の造形や、チームの構成、ユーモアという点では、〈キャプテン・フューチャー〉は明らかに〈ドック・サヴェッジ〉を踏まえているし、〈ファントム〉の売り物であった血まみれな感じはどこにもない。
 〈ファントム〉は、同時期にスタートしたポピュラー・パブリケーション社の〈スパイダー〉と同じように、ストリート&スミス社の〈シャドウ〉(ヒーローパルプの最初の雑誌)からヒントを得たものだ。というよりも同じマーケットを狙ったもので、〈キャプテン・フューチャー〉とは別の系統と考えるべきものだ。たしかに〈ファントム〉では、クラリオン・ビルの屋上にライトが灯され、〈キャプテン・フューチャー〉では北極の信号灯台が点灯するというところは同じ仕掛けだが、共通点というのはそれぐらいだろう。
 ついでに、チーム型のヒーローというのは〈ドック・サヴェッジ〉が生み出したということになっているが、私としては、その何年も前に出版されているダルボット・マンディの〈ジムグリム〉シリーズの主人公の造形やサブキャラクターとの関係が〈ドック・サヴェッジ〉の元型に近いのではないかと考えている。もちろん、これ以外にも多くのチーム型のヒーローの元型を探し求めることはできるだろうが、そこには深入りしないでおこう。
キャプテン・フューチャー全集・第3集  ただ、はっきりさせておきたいのは、ただの仲の良い仲間としてのチームではなく、構成している人間たちの個々の役割が明確になっているチームという考え方は、極めてアメリカ的なものではないかということだ。もちろん、その背後には軍隊というものがあるにしろ、それを軍以外に持ち出したのはアメリカなのだと思う。
 その典型はアメリカン・フットボールなのだが、ヨーロッパ起源のサッカーやラグビーとは、プレーヤーのあり方が明らかに異なっている。そして、野球にしてもバスケットボールにしても、アメリカ発のスポーツはいずれもプレーヤーの役割を規定するところからはじまる。そして、これらのアメリカ製のスポーツの感じさせる近代性は、役割規定というところから来ているのではないかと、私は考えている。
 何よりも興味深いのは、そうした役割という制度の中から極めて個人色の強いスーパースターが生まれてくるという逆説が可能になっているということだ。集団の中から個人が生まれ、体制の中から反体制が生まれ、没個性的なシステムの中から個性が生まれてくる。それがアメリカというものを示しているのではないか。
 ヒーローパルプが、ハウスネームというシステム、数人のライターが一つの名前の下で物語を生み出していくという小説の大量生産のためのシステムから多くの物語を生み出していたことに少し触れたが、これもまたチームに肯定的なアメリカにしかありえない形だったように思う。
 ハウスネームというシステムは、実は、ヒーローパルプのヒーローのコピーライトが出版社の側にあり、一人の作家に帰属させたくないために生まれたのだという話もある。ビジネス上そういうことは起こりうるし、それはそれで正当なのかもしれないが、私としては小説の大量生産のために生まれたのだとしてかまわないと思っている。
 そして、このシステムの中からスーパースターが、やはり生まれてくるのだ。それは日に1作、あるいは2作にもなる大量生産という過酷な条件をクリアーしてしまう個人の中から生まれてきた。
 ヒーローパルプという出版システムを造り出したストリート&スミス社の〈シャドウ〉も、あるいはそのシステムをビジネスとして確立させた〈ドック・サヴェッジ〉も、それぞれマクスウェル・グラントそしてケネス・ロブスンというハウスネームの下で出版されていたが、実際には、そのほとんどはウォルター・ギブスンそしてレスター・デントという個人が書いていたわけで、ギブスンにいたっては、20年近い間、300作を超える〈シャドウ〉を、最盛期には毎月2作の〈シャドウ〉の長篇を生み出したのだ。それはシステムに対する個人の圧倒的な勝利であるわけだが、この超人的な生産量を支えていたのは、ギブスンの能力と共に、〈シャドウ〉と〈ドック・サヴェッジ〉の編集者を含めた3人のチームのストーリー・コンファレンスがあったことだという。個人は、またチームに戻るのか。
 〈キャプテン・フューチャー〉の特異なところは、こうしてみると、実は最初からエドモンド・ハミルトンというスペース・オペラの世界のスーパースターをフィーチャーしていたところにあることがわかる。
 いや、エドモンド・ハミルトン以外には〈キャプテン・フューチャー〉は書けなかったのだ。ハウスネームで書かれたものも、マンリー・ウェイド・ウェルマンが書いたものもあるが、全体としてはハミルトンのものである。それは私たち読者にとっては幸運以外の何物でもない。
 スタンダード・マガジン社の当初の企画を見れば明らかなとおり、それは〈キャプテン・フューチャー〉という名前でさえなかったのだ。ハミルトンがいなかったら私たちは〈キャプテン・フューチャー〉を失っていたのだし、私たち日本の読者は私たちの読書リストの中からスペース・オペラを失っていたかもしれないのだ。
 その点については、私たち日本の読者は二重の幸運に恵まれていたと信じている。〈キャプテン・フューチャー〉の紹介者であり訳者である野田昌宏の存在だ。
 野田昌宏の『SF英雄群像』は、SFのヒーローを紹介していくという60年代の〈SFマガジン〉の名物エッセイであった。私たちは毎号それを楽しみにしていたのだが、その白眉は〈キャプテン・フューチャー〉を紹介した回であったように思う。
 楽しそうなのだ。紹介者自身が誰よりも楽しそうで、それは読者であった私にすぐ伝染してしまった。〈キャプテン・フューチャー〉読みたいぞぉ! 早く読ませろ! 野田昌宏のあけっぴろげな熱狂ぶりは、他の誰にもできないものであったし、スペース・オペラというものが楽しくすばらしいものであるという感じは、彼以外には伝えることができなかったのではないか。
 実際に野田昌宏本人に会ったとき、私が感じたのは『SF英雄群像』と同じ波動であった。そのことに、びっくりした覚えがある。楽しい。わくわくする。ああ、同じなんだ、この人は。野田昌宏がいれば、すぐにわかる。その場の空気が明るく、ハッピイなのだ。
キャプテン・フューチャー全集・第2集  〈キャプテン・フューチャー〉の翻訳で言えば、アンドロイドのオットーの語り口、そしてグラッグとのやりとりは野田昌宏の発明であると思うし、そのような部分から生まれてくる〈キャプテン・フューチャー〉の楽しさは、日本におけるスペース・オペラの方向を決定づけたのではないかと思っている。野田昌宏がいなければ、日本のスペース・オペラは存在しなかった、あるいは、ちがうものになっていたのだ。
 そして、野田昌宏の近くにいた高千穂遙が日本のスペース・オペラ、そしてライトノベルの嚆矢となった〈クラッシャージョウ〉と〈ダーティペア〉を生み出したのも偶然ではなかった、と思う。繰り返すが、私たちが野田昌宏を持てたのは幸運だったのだ。
 ハミルトンに話を戻す。
 ハミルトンが〈キャプテン・フューチャー〉で示したものは幾つもあるが、中でも特別なことは、主人公のカーティス・ニュートンに内面的な成長を与えたことではなかったかと思う。
 先に述べたが、ヒーローパルプのヒーローたちは過去を持たない。それはハウスネームという制作システムからくる問題だが、結果としては、多くのヒーローたちは何十何百という冒険を繰り返しながら、毎回、彼らの内面は白紙に戻る。たとえば、主人公とガールフレンドのラヴ・ストーリーも、まったく進行しなかったりする。それは当然のことながら、ヒーローたちをボール紙のように薄っぺらなものにしてしまうことになる。
 そうした欠点をカバーするために多くの優れたライターたちは何をしたかというと、主人公の行動や事件をどんどんエスカレートさせていくことだった。〈スパイダー〉や〈オペレーターNo.5〉がほとんど狂気に近づいていったのも、〈シャドウ〉のシークレット・アイデンティティが何度も何度も別人化していったのも、つまり仮面を何枚もつけているようにはがしてもはがしても別人の顔が生まれてくるという奇怪な状態になっていったのも、過去を持てないところにある。いつも現在であり続けることがヒーローパルプの弱点であり、逆に、その奇妙な世界を生み出した理由でもあるのだ。
 が、エドモンド・ハミルトンが〈キャプテン・フューチャー〉でやったのは、全体に或る種の連続性を与えるということだった。それは、最初からハミルトンがハミルトンの名で全部を書くというところから来ているのだろうが、読む側からすればキャプテン・フューチャーその人に、より強い親近感を持つことになる。
 いや、もちろん、単行本ではなく、毎月、あるいは毎回読み捨てられていく雑誌形式で発表されていったものだから、途中から読んでも読めなくはないが、〈キャプテン・フューチャー〉に限っては、最初から読んだ方がぜったいに面白い。
 たとえば、この第5集に収録されている『輝く星々のかなたへ!』『月世界の無法者』だが、ストーリーとしては独立しているが、時系列としては連続している。前集の『時のロスト・ワールド』を読んでいれば、『輝く星々のかなたへ!』のちょっとしたエピソードや言葉の意味がよくわかる。
 そして、こうした連続性や、過去が存在することの意味が端的に現われるのは1950年に再開された短篇のシリーズで、そこにはシンプルな正義の味方ではないカーティス・ニュートンが見てとれる。
 実はハミルトンの作品『スター・キング』とその続篇『スター・キングへの帰還』でも、主人公の内面に変化というか、成長が見てとれる。シンプルなラヴ・ストーリーのハッピーエンドが、実は新たなスタートであることになり、そこから主人公は変わりはじめるのだ。それはハミルトン自身の変化の反映であるかもしれない。
 〈キャプテン・フューチャー〉のカーティス・ニュートンも、悪い奴をやっつけるというシンプルな行動原理から、何が悪で何が正義なのか、そして自分自身の中にさえ、自分が悪としていた欲望が存在することを知ることになる。それは、ヒーローパルプのヒーローたちの何人かが無意識に気づいていたことなのだが、カーティス・ニュートンは、それを自覚した最初で最後のパルプのヒーローなのだ。
 ヒーローパルプのヒーローたちは、ほとんど唐突に読者の前から去っていった。が、〈キャプテン・フューチャー〉は、ハミルトンの意思ではないだろうが、終わっても納得できる形で終わっていると言っていいだろう。スーパーヒーローはスーパーヒーローである以前に人間であるのだ。それはハミルトン自身の発見でもあったにちがいない。
 さて、ここで私の話を終えてもいいのだが、ここまで〈キャプテン・フューチャー〉に関わる幾つかのことを語ってきながら、最も重要なことに触れてこなかったことに気づいた。
〈キャプテン・フューチャー〉のどこが面白いのか?
 ほぼ究極の問いである。キャラが面白い。アクションが面白い。世界が、いや、この宇宙を飛び回るのが面白い。やっぱりチームの会話がいい。すっきりするからなあ。色々あると思う。思うが、そういうことは他の物語でも満たされるのではないか。
 〈キャプテン・フューチャー〉にしかないもの。エドモンド・ハミルトンにしかできないもの。それが、私にとって最も面白いものである。
 アイデア。それが私の回答である。
キャプテン・フューチャー全集・第1集 ヒーローパルプの時代にあって、アイデアというのは常に重要なものだった。多くの人々は、ヒーローパルプというものはフォーミュラー・フィクションそのものであり、同質の物語しか提供しないものだと考えている。日本におけるフォーミュラー・フィクションの典型は水戸黄門(紙に書かれたフィクションではないが)であったりするが、それが語られる際には、大衆は同じ物語を欲するというようなことが語られる。否定はしないが、同じ公式(フォーミュラー)を使うということが何を意味するかといえば、同じ公式で新鮮なものをつくるということなのだ。
 つまり、そこには技術以上に才能が必要とされる。〈ドック・サヴェッジ〉の作者のレスター・デントは、そのすべてを一つのフォーミュラーで書いたと主張しているが、フォーミュラー・フィクションで最も重要なことは単調にならないことだとも言っている。読者を引きずり込むためには、すべてのページにちょっとした驚きを入れておかねばならない。そして「アイデアこそが、単調な物語をつくらないために必要なことなのだ」としている。
 フォーミュラー・フィクションは、イメージとは逆に、最も多くのアイデアを必要とするものなのだ。
 エドモンド・ハミルトンがこのレスター・デントの主張を知っていたかどうかわからないが、いや、私としては知っていた筈だと考えている。この主張は1939年の〈ライターズ・ダイジェスト〉に発表されているし、そこでレスター・デントは自分のフォーミュラーも公開している。そして〈キャプテン・フューチャー〉の第1作が書かれたのは1940年なのだ。何よりも〈キャプテン・フューチャー〉は、このレスター・デントの主張を忠実に実行しているように思える。
 フォーミュラーが存在しているということではない。いや、レスター・デントのフォーミュラーほど厳格ではないが、物語のストラクチャーには大まかな共通性があるし、それは一種のフォーミュラーと考えられるかもしれないが、私が語りたいのは、たとえば「すべてのページに驚きがなければならない」というようなことだし「アイデア」の重要性ということだ。
 たとえばこの第5集の『輝く星々のかなたへ!』でもいい。そのページに詰め込まれているマイナーなアイデア、ガジェットも含めてだが、その量は圧倒的だ。具体的には触れないが、物語の本筋とは関わりのないエピソードが幾つも出てくる。あるいは、科学的に言ったらありえない、あってはならない描写やメカニズムが出てくるところもある。
 それらは現在の目からすれば無茶なことばかりだし、SFとして否定すべきものもある。けれども私は、それらを否定しない。むしろ肯定したいのだ。小説の作法としてあってはならないことが、ここで行なわれていることに楽しさと喜びを感じている。1ページ毎に、私はちょっとした驚きを感じるのだ。ここで行なわれている無制限なアイデアの飛躍こそが〈キャプテン・フューチャー〉であり、エドモンド・ハミルトンであると思っているのだ。
 それらのほとんどは、まじめな思考の結果であるというよりも思いつきでしかないのだが、そのようなものが書かれていること、そのこと自体が、すてきである。想像力などという立派な言葉は必要ない。おそらくは苦しまぎれの、その場しのぎのアイデアであるのだろうが、その集合のもたらす楽しさや喜びこそが重要なのだと思う。
 考えてみてほしい。『輝く星々のかなたへ!』では、移住させられる水星人(!)がかわいそうだ、何とかせねばという理由で、キャプテン・フューチャーは銀河系の中心に旅をし、何と、宇宙創造の秘密を手に入れようとするのだ! 宇宙創造だよ。そこからすべてが生まれてくる秘密だよ。問題と、それらを解決する手段との間に、こんなに落差があっていいのか! もはや目的と手段の逆転と言うべきことがこのエピソードで起きている。エドモンド・ハミルトン自身もこのエピソードを書いたときには気づいていなかったのだろうが、結果としては、この『輝く星々のかなたへ!』で生み出したメイン・アイデアの重要性に気づいて、カーティス・ニュートンの最後のエピソードでもう一度このアイデアを使っている。
 その意味では、この『輝く星々のかなたへ!』は、すべてのキャプテン・フューチャーの物語の中で最も重要なものの一つかもしれない。そして、私の言おうとしているアイデアの面白さを充分に示してくれていると思う。
 〈キャプテン・フューチャー〉は、人の脳が何を生み出すのか、意識せずに何を生み出してしまうのか、そしてそこで生まれたものは理性や知識の範囲や制約を超えてしまうことを示してくれるのだし、ヒーローパルプやスペース・オペラという知的なものから遠く離れていると思われているものがどれほどすばらしいものを生み出したのかを示してくれている。
 そのことを経験するためだけにでも、今、〈キャプテン・フューチャー〉は読まれるべきなのだ。

(2005年2月10日)


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