ダイアナ・ウィン・ジョーンズ
『詩人(うたびと)たちの旅』〈デイルマーク王国史1〉
解説[全文]沢村 凛

ダイアナ・ウィン・ジョーンズ『詩人たちの旅』
田村美佐子訳/創元推理文庫
詩人たちの旅  吟遊詩人と英雄伝説、戦争と魔法、血と復讐、馬車の旅と異郷への憧れ、反目と和解、少年の成長と自立、友情と勝利――この物語には、冒険ファンタジーのエッセンスがつまっている。しかし、それだけではない。なにしろ、ダイアナ・ウィン・ジョーンズという型破りな小説家の作品なのだから。
「ファンタジーの女王」の異名をとるダイアナ・ウィン・ジョーンズは、故国イギリスで「国の宝」と称されるほど高い評価を得ている人気作家だが、こうした誉め言葉から連想されるお行儀のいい大御所然としたイメージとは程遠い独創的な物語を紡ぎ出す。その魅力は多彩で、長年のファンの私としては、同好の士と会談する機会を持てたなら一晩じゅうでも語りあえそうな気がするくらいだ。
 たとえば、道具立てはオーソドックスなのに個々のシーンがはちゃめちゃにはじけていることとか、あちらの世界の土のにおいがしてくるような濃密な描写と目眩(めまい)のしそうな急展開がミックスされていることとか、極悪人や身内の裏切りや身の毛のよだつシーンが出てきても最終的な読後感はつねに晴れやかなこととか、挙げればきりがないのだが、ジョーンズの魅力の源泉を私なりによくよく考えてみたところ、三つに集約されるように思う。
 登場人物のリアルさと、根の明るさと、プロットの重層性だ。
 ファンタジーの登場人物がリアルでは興がそがれるとお思いの方がいらっしゃるかもしれないが、その手のリアルさではないので心配はご無用。ジョーンズの描く登場人物(人間だけでなく、魔法使いや、幻獣や、本書のオロブのような普通の動物も含む)はみな、実に個性豊かで、それが私たちを物語に引き込む力になり、ストーリーを素敵にもつれあわせる原因にもなっているのだが、この個性を生み出しているのが、日常におこる心のさざなみのリアルな描写なのである。
 たとえば本書では、主人公モリルと兄のダグナー、姉のブリッド、正体不明の少年キアランの四人が馬車で旅する途中に、こんな場面がある。年長の二人(ダグナーとキアラン)が夜、追手を警戒して交代で見張りに立つ。そのことに気づいた主人公モリルが抱いた感情は、感謝でも労(ねぎら)いでもなく、「だんだん気に障ってきた」というものなのだ。「なんだかんだ言っても」「見つかって損をするのはモリルとブリッドであって、ダグナーとキアランではない。朝になり、またこのふたりが寝ずの番をしていたと知ると、モリルはますます腹が立った」。
 ある、ある、こういうことって、と読みながらにんまりした。
 誰かが自分のために無理をしながら何かをしてくれている。ありがたいと思うべきなのに、なぜか気に障る――こういった理不尽で微細な感情の動きは通常、表現の場にあらわれることはおろか、自覚されることすら少ないものだ。特に“理性ある大人”の場合、苛立ちの理由を他の合理的なものに転嫁したり、目をそらして圧殺したりするから。
 ジョーンズはこのような、理性の光の前では定規で直線にならされてしまう心の凸凹を、凸凹のままに(時には強調さえして)描いてみせてくれる。
 人(および魔法使い、幻獣、動物など)はみな、個性を持っている。だから、心の凸凹までをリアルに描写されれば、誰だって「個性的」となる。強調されればなおさらだ。いきおいジョーンズの世界では、リアルで個性的な登場人物たちが、縦横に活躍することになる。それも、伝説の魔法の復活とか、世界の存亡をかけた戦いといった壮大な舞台装置の中で。読者はそこで、物語の奥行きと臨場感をたっぷりと味わうことができるのだ。
 ではつづいて、魅力の源泉の二番目、「根の明るさ」を見てみよう。
 彼女の描く人物たちは、〈リアルな凸凹〉を持つがゆえに、「そんなしょーもないことにこだわってないで、さっさと巨悪と戦いなさいよ」とか「どうでもいいことで兄弟喧嘩してる場合じゃないでしょ」と尻をたたきたくなることが多いのだが、その一方で、ステレオタイプな悩みや煩悶に拘泥しない(『魔法使いハウルと火の悪魔』のヒロインの「長女は幸せになれない」のような、ステレオタイプを逆手にとって作者が遊んでいるものは別にして)。
 たとえば親子関係の問題。ジョーンズの作品に、聖母や慈父は出てこない。愛情あふれる人物でも何かしらの欠点を抱えているし、虐待や育児放棄(ネグレクト)をする親もいる。しかし主人公たちはそこで、ありがちなアイデンティティ崩壊の泥沼に足をとられたりしない。
 本作の主人公モリルの両親も、かなり困った人物だ。スポットライトを当てて観客席からながめれば、父親は勇敢な英雄といえるし、母親は耐えることを知る女性の鑑(かがみ)。しかし、作者もモリルも、天然光の下(もと)での実像を見る。父親はおちゃめな家庭内独裁者。母親は冷酷さと紙一重の冷静さを持ち……ここから先はネタばれになるのでやめておくが、モリル少年は、親たちのこうした人間的な側面を見ぬき、受けとめ、自立への糧とする。それも、許しや和解といった特別な儀式ぬきで。たとえ親であろうと自分とは別個の人間であり、親の欠点は自分自身の問題の直接の原因ではないと割り切ることのできる前向きな姿勢が、そこにはある。
 たぶんそれは、作者の人間全般に対する態度の反映なのだと思う。ホラー的なのに少女の恋がさわやかに描かれている好著『九年目の魔法』の中に、こんなせりふがある。
「人って変わってるんだよ。たいていは、はたで思うよりずっと変わってる。そう考えるところから始めれば、ふいを突かれて不愉快な思いすることもない」。
 この言葉に表されているように、悲観主義者(ペシミスト)の性悪説でも楽観主義者(オポチュニスト)の性善説でもない、現実をありのままに受けとめる力を、主人公たちは多かれ少なかれ備えていて、それが、話の展開がどれだけ悲惨になっても(子ども向けの小説のわりに、そういう場面はけっこう多い)物語自体を“根暗”にしてしまわない下支えとなっているのだと思う。
 さて、ジョーンズの魅力の源泉その三の「プロットの重層性」だが、私はこれを「スパイダーマンの投網(とあみ)」とイメージしている。
 話の糸が網の目のようになって展開するのだが、この網は、はじめから形をなしているわけではない。スパイダーマンが指から噴射する糸みたいに、まずは四方八方に飛び散っていく。そして、どれとどれがどう関係するんだかさっぱりわからないままに広がっていったかと思うと、突然、ひとつにつながった魚網となり、ぐいっと力業で引っ張り上げられたときには、中でたくさんの魚がぴちぴち跳ねている、というものだ。ここでいう「魚」とは、読んでいる側の〈わくわく〉〈どきどき〉〈やったー〉〈えー?〉という感動やら驚嘆やらの感情のこと。これらが根こそぎさらわれる。読後には大漁旗がはためくことになる。
 ――と、ここまで読んで、なかには首をかしげている方がいらっしゃるかもしれない。そう、実をいうと本作『詩人たちの旅』に限っては、「スパイダーマンの投網」が当てはまらない。四方八方に広がるどころか、反対に脇道のない一直線の物語になっているのだ。そういう意味では異彩を放つ作品で、かねてよりのファンには新鮮な驚きを与えてくれ、ジョーンズ未体験者には格好の入門書であるといえるだろう。
 これには、本作が書かれたのが著者の作家活動の初期ということが関係しているかもしれない。誤解のないようにお断りしておくと、それは本作が未熟であるとか習作であるとかという意味では決してない。一直線には一直線の醍醐味がある。投網のイメージに対比させていうなら、本作はさながら一本釣り。それも、その迫力からいって釣り上げられるのは、脂ののった百五十キロ級の本マグロ。このひと竿の釣果もまた、大漁旗を掲げるにふさわしいものといえるだろう。

(なお、本作は、これ一冊で完結した物語ではあるが、これから続々と刊行される予定の三作と合わせて《デイルマーク王国史》四部作を構成している。この国の運命のその後や本作以前のこと、モリルのさらなる活躍を知りたい方は、ぜひとも、第二部以降を手にとっていただきたい。リアルな凸凹をぶつけあう兄弟同士の葛藤がだんだんとエスカレートするさまも、お楽しみいただけるはずである。
 また、「スパイダーマンの投網」型の白眉として『ダークホルムの闇の君』と、児童書『七人の魔法使い』が挙げられる。本書でダイアナ・ウィン・ジョーンズの世界に足を踏み入れられた方には、ぜひこれらの多彩な世界も味わっていただきたい)


沢村凛(さわむら・りん)
作家。1992年『リフレイン』でデビュー。1998年『ヤンのいた島』で第10回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。創作に、歴史ロマン『瞳の中の大河』、恋愛小説『あやまち』、ミステリ短篇集『カタブツ』がある。他に、ノンフィクション『グァテマラゆらゆら滞在記』、児童書の翻訳『耳を立ててよくおきき』(ティモシー作、バック画)がある。

【ダイアナ・ウィン・ジョーンズの歴史ファンタジイ四部作《デイルマーク王国史》
今秋より刊行開始!】
(2004年9月10日)
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