10歳の少年の“ひと夏の体験”を描いた普通小説。
――などというものを、本格ミステリの巨匠にして「アメリカの探偵小説そのもの」と言われる、あのエラリー・クイーンが書いていたとは、信じられない人も多いでしょう。もちろん、代作ではありません。正真正銘、クイーン自身の手になる作品です。そして、もっと信じられないことがあります。それは、この本が面白い、ということです。「クイーンの少年時代が描かれているから面白い」とか、「文章やプロットがクイーンらしいから面白い」と言っているのではありません。「クイーンが書いた」ということを知らずに読んだとしても、面白いのです。本書は、いわゆる〈少年小説〉として、魅力あふれる作品なのです。
そして、もちろん、クイーン作品としての面白さも持っています。クイーン・ファンならば、本書から数多くの魅力を感じ取ることができるはずです。
しかし、まずはこの本の成り立ちからお話ししましょう。
1『ゴールデン・サマー』について
本書は、1953年にリトル・ブラウン社からダニエル・ネイサン名義で刊行されました。そして、厳密に言うならば、本書はクイーン作品ではありません。ご存じの通り、作家エラリー・クイーンは、フレデリック・ダネイとマンフレッド・リーの合作名ですが、本書は、ダネイが単独で書いたものなのです。(ちなみに“ダニエル・ネイサン”というのは、ダネイの本来の名前です。社会に出るときに、 Daniel Nathan の最初の部分をとって Dannay と改名したと言われています。)
ダネイ単独の著書といえば、書誌研究『クイーンの定員』やエッセイ集『クイーン談話室』などがありますが、いずれもクイーン名義でした。なぜ、ダネイは一人で、本来の名前で、ミステリではない小説を書いたのでしょうか?
その理由について、クイーン研究家のF・M・ネヴィンズJr.は、"The Sound Of Detection" (1983) の中で、こう語っています。
「1948年に生まれた息子スティーブンが脳障害で長生きできないことを知ったダネイは、自分のかつての少年時代の穏やかな世界をよみがえらせ、現在の行き場のない怒りを封じ込めようとして、この本をたった一人で書いたのだ。スティーブンは六歳でその短い生涯を閉じた」
愛する息子に与えられた残酷な運命を悲しむ気持ちをまぎらわすための書――それが『ゴールデン・サマー』だったのです。そして、このような暗い執筆動機にもかかわらず、あるいはそれゆえに、本書はクイーン作品の中では例外とも言うべき、かげりのない明るさを持っているのです。
ところで、原書のジャケットの宣伝文句を読むと、クイーンどころか、ダネイの名前すら出て来ないことに気づきます。当時、ダニエル・ネイサンがダネイの旧名だという事実は知られていなかったはずなので、読者にとっては、まったく未知の作家ということになりますね。リトル・ブラウン社が、ドル箱作家(の片割れ)が書いた本に“クイーン”の名を入れたがらないとは考えられないので、おそらくはダネイ自身が、あまりにも執筆動機が私的であるために、クイーンの名を出すことを控えたのでしょう。
そして、当然の結果として、本書はまったく売れなかったそうです。もっとも、私が所持している本では「PUBLISHED MARCH 1953 / REPRINTED MARCH 1953」となっています。初版と再版が同じ月ということは、当初は(無名作家の本なので)小部数の予定だったが、見本刷の評判が良くて刊行前に再版したのか、刊行直後の出足が良かったということなのでしょう。
何はともあれ、セメント袋――ではなかった、在庫の山は残りました。そこでダネイは、この山を少しでも低くしようとして、3年後の1956年に、自らが編集するEQMM(エラリー・クイーンズ・ミステリマガジン)に、「ダニーの冒険」の題の下、3つのエピソードを加筆して再録したのです。
6月号 「少年と本」第6〜7章(翻訳は光文社「EQ」誌第10号)。
8月号 「少年と貯金箱」第18〜19章(同、第11号)。
10月号 「少年と法」第10〜11章(同、第12号)。
ダネイはさらに、友人の作家たちに提灯持ちの文を書かせ、それを各話に添えています(本書の「序」として訳載しました)。ところが、これだけやっても、まだ「ダネイが書いた」ということは明かしていないのです。それどころか、再録時に手を加え、登場人物の1人“エラリー・ハーマン”の“エラリー”を外してさえもいます。あくまでも個人的な本にしておきたかったのでしょうか? あるいは、女王【クイーン】の威光なしで、自作がどう評価されるかを、知りたかったのでしょうか?
実は、この答えはわかっています。1970年の「ルック」誌のインタビューで、ダネイが次のように語っているからです。
「2人の合作者の間には互いに依存してしまうという問題が生じるのです。(中略)何十年も合作を続けていくと、この問題はどんどん大きくなり、精神的な負担にまでなってしまうのです。私はずっと、1人だけで長編が書けるかどうか自問していました。(中略)私は自分の少年時代を描いた小説を書こうと思いました。(中略)『ゴールデン・サマー』というタイトルの長編小説を書きあげて出版した時、私の依存に関する苦悩は、きれいさっぱり消え去りました」
これが、『ゴールデン・サマー』のもうひとつの執筆動機です。「マンフレッド・リーの才能を借りることなく、自分ひとりでどこまで長編小説を書けるのか」というチャレンジだったからこそ、クイーンの名を伏せておくことに固執したのでしょう。
なお、EQMMの1977年7月号に掲載されたアイザック・アシモフの短編「クリスマスの十三日」に添えられたクイーン(ダネイ)のコメントにも、この本は登場します。
「少年探偵の系譜をたどってみましょう――(中略)マーク・トウェインによるトム・ソーヤー、ブース・ターキントンによるペンロッド、エラリー・クイーン・ジュニア、ダニー・ネイサン――」
20年以上も昔に再録しただけの作品を挙げるなんて、しかも、探偵役とは言い難いダニーの名を挙げるなんて、『ゴールデン・サマー』に対するダネイの愛着には、ただならぬものがありますね。
2 少年小説としての魅力
原書のジャケットの宣伝文の中に、「これは、『トム・ソーヤーの冒険』や『少年ペンロッド』を愛読した者ならば、老いも若きも、誰でも楽しめる本である」という文があります。
この文を引くまでもなく、本書を読んで、マーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』を思い出した人は多いでしょう。
・塀のペンキ塗りを命じられたトムが、それを友人たちに押しつけ、なおかつ彼らからお菓子やオモチャを巻き上げ、“ものすごい財産家”になる「栄光のペンキ塗り」。
・聖句を暗誦するたびにもらえるカードを、物々交換で集めたトムが、ごほうびの聖書を手に入れる「日曜学校」。
こういったエピソードは、そのまま『ゴールデン・サマー』に収録しても、違和感はありません。何よりも、物語のラストで、トムは大金を手に入れるのですから。
ところで、マーク・トウェインといえば、「世界のすべてが一つの町に」の章に、「エルサレム・ヒルを登ればマーク・トウェインの家がある」という文があるのに気づいた人も多いと思います。これは、どういう意味でしょうか?
ここで、クイーンが編纂したアンソロジー『シャーロック・ホームズの災難』(1944)の序文を見てみると、次の文が見つかります。
「私が子供だった頃、家族はニューヨーク西部の小さな町に住んでいました。私が生まれる前にマーク・トウェインがわずかの間住んでいたこの町で、ハックルベリイ・フィンやトム・ソーヤーのような少年時代をすごすことができたのは、人生の最初期における最大の贈り物でした」
なんと、その小さな町エルマイラには、マーク・トウェインも住んでいたことがあったのです(調べてみると、今でもその名を冠した建物や場所がありました)。『トム・ソーヤーの冒険』の作者が住んでいたエルマイラで少年時代を過ごしたダネイが、『ダニー・ネイサンの冒険』を書いたというのは、なかなか楽しい話ではないでしょうか。
なお、『トム・ソーヤーの冒険』と並んで、本書のあちこちに登場する『少年ペンロッド』についても、ここで触れておきましょう。
アメリカの作家、ブース・ターキントン(1869〜1946)が1914年に出したこの本は、ペンロッドという名の12歳の悪童を主人公とする〈少年小説〉の名作です。友人と秘密クラブを作ったりするので、本書を語る際に、ひきあいに出されるのでしょう。
ちょっと面白いのは、『ゴールデン・サマー』の第1章に出て来る“ナメリッシュ”(原文はlickrish)が、『少年ペンロッド』にも登場することです。こちらによると、食べ物ではなく飲み物のようです。ダネイは有名な先行作に敬意を表して“ナメリッシュ”を出したのでしょうか? それとも、1914、5年ごろは子供たちに人気のドリンクだったのでしょうか?
F・M・ネヴィンズJr.は「ダニーは、金に飢えて抜け目のない商売人の子供版に過ぎない」と批判しています。たしかに、ほとんどのエピソードで、お金儲けの話が出て来ることは否定できません(まあ、「親から与えられた金や物を消費するだけの現代の子供たちよりはマシ」と弁護できるかもしれませんが)。しかし、ダネイ自身は金の亡者というわけではありません。例えば、ダネイはEQMMの編集に途方もない労力をつぎ込んでいますが、金が目当てだったら、「ヒッチコック・マガジン」や「セイント・マガジン」のように、名義だけ貸した方がずっと楽ですから。ダニーにしても、「この夏のどん底」の章では、チャドとサートリアスに虎の子の40セントを払っていますが、本当に守銭奴ならば、ごまかしたり嘘をついたりして、1セントたりとも払わないのではないでしょうか。
ここで、あらためて『ゴールデン・サマー』における、お金儲けの話をふりかえってみると、ダニーはお金を得る際に、必ず知恵を働かせていることがわかります。つまり、ダニーにとっては、頭脳によって勝利を得たことが重要なのであり、お金は、その勝利の証なのではないでしょうか?
この考えは、2つのエピソードによって裏付けられます。
「少年と竜」では、ダニーはケース先生を強請って1ドルを得るという誘惑に打ち勝ちます。しかし、「日曜日の遠足」では、父親のビールを勝手に売って、1ドル10セントを得ています。そして、この2つの違いは、頭脳を用いているかどうか、の差なのです。
また、「川でのキャンプ」の野球のエピソードでは、ルールを逆手にとったダニーが、チームの敗戦責任を逃れることに成功します。ここでのダニーは一セントも得てはいませんが、作者は明らかに“勝利の記録”として描いています。なぜかというと、頭を働かせてピンチを脱したエピソードだからです。
実は、まさにこれこそが、本書の〈少年小説〉としてユニークな点なのです。腕力も金もないダニー少年が、頭脳の力だけでさまざまな問題に立ち向かい、勝利をおさめていく姿を描く――これが『ゴールデン・サマー』なのです。
もちろん、他にもすぐれた点はあります。秘密クラブやサーカスやキャンプといった、少年にとって“わくわくするような”出来事や、ダニーと仲間たちとの“いかにもありそうな”やりとりは、私たち日本人にとっても、郷愁を誘うものでしょう。特に、藤子不二雄Fの『ドラえもん』の世界とよく似ています。――もっとも、ダニー少年の外見は「のび太くん」ですが、自力で難問を解決するので、「ドラえもん」も兼ねていますね。
また、幕間の章も、時代の証言として貴重です。1915年当時のアメリカ人の生活や娯楽が、よくわかるではありませんか。明らかに大人の読者向けに書かれたこの文は、『トム・ソーヤーの冒険』や『少年ペンロッド』には見られないものなので、これもまた、本書のユニークな魅力と言えるでしょう。
なお、幕間の章にはもうひとつ、“次の章の前ふり”という役割もあります。幕間の「十セントで天国……が買えた時代」が、その次に来る第13章「頓智合戦」のオチと結びつく、といった具合に。こういった構成の見事さは、さすが伏線の名手クイーン、といったところです。
そして、この本の〈少年小説〉としてもっとも面白い点は、「ミステリのテクニックがいくつも使われている」ということです。『トム・ソーヤーの冒険』のように、主人公が犯罪事件に巻き込まれるという意味ではありません。『探偵トム・ソーヤー』のように、主人公が名探偵を演じるという意味でもありません。エピソードを描くにあたって、推理小説【ミステリ】のテクニックを利用しているという意味なのです。
具体的に挙げてみましょう。
「シルバー船長の復活」では、ダニーが幽霊を出現させるシーンを描き、その後で「どうやって光る骸骨を作り出したのか?」が明かされます。
「日曜日の遠足」では、父親が不在の間に「ダニーが何をしたのか?」を隠しておき、最後に明らかにします。このエピソードでのダニーは、父親だけでなく、読者をも欺いているわけですね。
「レッドベター・ベーカリー・コンテスト」では、ダニーの“ひらめき”のシーンが出て来ますが、「何がひらめいたのか?」は書いてありません。しかし、読者が“ひらめき”を見抜くために必要なデータはすべて、その時点までに提示されているのです。
「大ローラパルーザ・バイプレイン株式会社」では、「ダニーが“工場”にこもって何をしているのか?」について、読者をミスリードするような叙述がなされています。
少年小説もエンターテインメントである以上、ミステリのテクニックを用いて読者を引きずり回すことは、珍しくはありません。しかし、これほど数多く、そして巧妙に使われている少年小説が、他にあるでしょうか? テクニックが利用された数を言うならば、下手な推理小説よりも、ずっと多いかもしれません。
推理小説【ミステリ】以上にミステリごころに満ちた少年小説――これもまた、『ゴールデン・サマー』のユニークな魅力なのです。
3 クイーン作品としての魅力
しかし、本書の最大の魅力は、何と言っても、クイーン外典としてのものでしょう。クイーン・ファンならば、本書は絶対に見逃すことはできません。
まず、ダネイの自伝的小説だという点。〈小説〉となってはいますが、実話を基にしたものが、ほとんどでしょう(例えば、TGHクラブの話は、晩年のインタビューにも出てきます)。今後、ダネイやリーの伝記が書かれることはないでしょうから、本書は、ダネイの少年時代をうかがうことができる、唯一の資料ということになります。
次に、ダネイが単独で書いた唯一の〈小説〉だという点。ダネイとリーの合作方法については不明な点が多いのですが、この本を読むと、ダネイがクイーン作品のどの部分を担当したか、あるいは、しなかったか、ということが見えてくるのです。例えば、前述の「ルック」誌のインタビューを裏読みすると、ダネイはリーがいないと長編が書けないと言っているわけですが、『ゴールデン・サマー』が短いエピソードをつなげた形式になっていることは、これを証明しています。また、ダニーの父親はえらく影が薄いのですが、これは、「リチャード・クイーン警視の造形はリーがメインだった」という説の裏づけになるかもしれません。一方、ダニーがひらめきを得るシーンの描写は、名探偵クイーンが解決のヒントを得るシーンの描写と、よく似ているのです。
そして、ダネイの詩が読めるという点。クイーン・ファンならば、ダネイが詩人を志し、いくつも詩を書いたということは知っているかもしれません。しかし、それらは商業出版されることはなく、ファンは、クイーン編アンソロジー『犯罪は詩人の楽しみ』などで、ダネイの詩ごころを感じ取るしかありませんでした。ところが、本書には、ダネイの詩がいくつも収録されているのです。編集部に頼んで原文も載せてもらいましたので、クイーン・ファンのみなさんは、ダネイの詩の技巧を楽しんでください。
さらに、「名探偵エラリー・クイーンの少年時代の物語」としても読めるという点。己の頭脳だけを頼りに難問を解決していくダニーの姿は、小型エラリーと言ってもよいでしょう。残念ながら、謎を解くエピソードは「お金の香り」しかありませんが、怒り狂った友人たちを言葉の力だけで抑え込み、他人をあやつり、フェアであることにこだわり続けるダニーの姿は、まぎれもなくエラリーの少年時代なのです。
もうひとつ、ライツヴィルものの原点としても読めるという点。中期のクイーン作品において重要な舞台となる地方の小都市ライツヴィルと、本書の舞台エルマイラとの間に、多くの類似点を感じ取ったクイーン・ファンは多いと思います。ダネイ自身も、晩年のインタビューで「ライツヴィルという小さな町を作り出すにあたって、私が少年時代を過ごしたエルマイラを参考にした」と語っているのです。
もっと細かい点まで見ていくと、興味深い点は限りがありません。以下、私が気づいたものだけ、挙げてみましょう。みなさんも探してみてください。
【献辞】本書を捧げられている4人の内、ダグ(ダグラス)とリッチ(リチャード)はダネイと最初の妻メアリーとの子供の名前です。スティーブ(スティーブン)は2番めの妻ヒルダとの子供で、この本を書くきっかけとなりました。ビルについては不明です。
【第1章】ダネイがJ・F・クーパーの『モヒカン族の最後』が嫌いであることがわかります。そういえば、『ローマ帽子の謎』刊行50周年記念のエッセイでも、「こむずかしかった」と書いていましたっけ。
【第2章】“恐怖の家”のショーは、『エラリー・クイーンの新冒険』収録の「暗黒の家の冒険」の原型と言えるでしょう。
「エラリー・ハーマン」という名の人物が登場します。ダネイは“エラリー・クイーン”というペンネームについて、「“エラリー”は少年時代の友人の名からとった」と語っていますが、正確には、「友人の父親」だったことがわかります。
「バーナビーの納屋」の前の道は「バーナビーの小路」となっていますが、こちらは「バーナビー・ロス」名義の「ドルリー・レーン4部作」のヒントになっているのかもしれません。
【第3章】R・L・スティーブンスン『宝島』のシルバー船長の後日譚をでっちあげるシーンでは、ダネイの才人ぶりがわかります。
最後に出てくるダニーの「倍にして返すよ!」の原文は“double your money!”。これは『クイーン検察局』収録の「あなたのお金を倍に」(1951)の原題です。
【第4章】注目は燐を使って暗闇で発光させるトリック。クイーン・ファンならば、ある短編のトリックを連想するでしょう。この短編には、ちゃんと〈骸骨〉も出てきますし。
【第5章】このエピソードでは、珍しく、ダニーがアンフェアなことをやります。その場合でも、友人と自分を納得させるロジックをひねり出すところが笑えますね。
【第5章の次の幕間】この文は、『シャーロック・ホームズの災難』の序文の一部の転用です。アンソロジー自体がドイルの遺族からのクレームで絶版になったので、序文だけでも復活させたかったのでしょうか? あるいは、クイーン・ファンに向けた、作者の正体を示す手がかりだったのでしょうか? 『ゴールデン・サマー』が売れなかったためか、ダネイは、一九五七年のエッセイ集『クイーン談話室』で、2度目の復活を試みました。
【第6章】『クイーン談話室』を読んだファンなら、「ダネイがホームズ作品と出会ったのは12歳の時じゃないか」というツッコミを入れるでしょうね。ネヴィンズによると、初稿ではL・F・ボームの〈オズの魔法使い〉シリーズ第7作『オズのかかし』だったそうです。編集者に「10歳の少年が読むものとしては、子供っぽい」と言われて、直したという次第。なお、抹消された『オズのかかし』は、第18章でひっそりと復活しています。
【第11章】クイーンには『Xの悲劇』『中途の家』『災厄の町』『ガラスの村』といった、裁判シーンが重要な役割を果たす作品が多いのですが、そのルーツはこの“裁判ごっこ”にあったわけです。
その名判決にユダヤ伝承が使われているのは、ダネイがユダヤ系だからでしょう。
【第13章】いとこのテルフォードという少年は、マンフレッド・リー(年少時の名はマンフォード)のことです。「ほぼ一歳年上」というのは、リーが1月生まれ、ダネイが(第6章にある通り)10月生まれだからですね。
はっきりとは書いてありませんが、大学を出たリーと、高卒で働きはじめたダネイとでは、かなり家庭環境に差があったようです。
【第14章】「日本の富士山」が登場する点に注目。『ニッポン樫鳥の謎』などに見られるクイーンの日本好きは、ダネイの方だったわけですね……と言いたいところですが、実は、マンフレッド・リーが単独で書いた作品にも、日本が出て来るのですよ。
第6章とこの章に出てくる〈モホーク〉は、インディアンの族名だそうです。しかし、クイーン作品でも見かけた気がするので調べてみると、『Xの悲劇』の第2の殺人に出てくる船の名前に使われていました。まあ、それだけですが……。
【第15章】暗号に興味のある方のために、ここで原文も載せておきましょう。
暗号文は "PHE PEAFS PHAP OAND CN TERMEIP FESSAZES WCLL REIECJE ONE DOLLAR EAIH DONAPED BY PHE ROTTEN STORPS SHOT"。これをまず、"THE" がもっともよく使われることから、"PHE" → "THE" と考えます。次にダニーが「ぼくたちは何だ、チームじゃないか」と言って、"PEAFS" → "TEAMS" と解きます。そしてチャドが「この調子でいけば完璧な【パーフェクト】メッセージができる」と言うと、ダニーはそれにヒントを得て "TERMEIP FESSAZES" → "PERFECT MESSAGES" と解くわけです。かくして解答は―― "THE TEAMS THAT HAND IN PERFECT MESSAGES WILL RECEIVE ONE DOLLAR EACH DONATED BY THE ROPPEN SPORTS SHOP"
【第16章】これはバウチャーも指摘している点ですが、この章も含め、ダニーはしばしば悪夢を見ます。クイーン作品でも悪夢のシーンが頻出することとあわせて考えると、どうやら、ダネイはフロイト学派のようですね。
【第17章】ダニーが絵を描くシーンに注目。ダネイは広告代理店で働いていたときには、アート・ディレクターをやっていましたし、作家になってからも、自作のカバーデザインに関与していました。このシーンには、その素質の片鱗があらわれています。
【第19章】暴力という〈力〉の前に、ダニーの〈知恵〉が敗北する暗い話。この救いのなさはクイーンらしいですね。ただし、前述のEQMM再録時には、このエピソードの後に、第10〜11章のミッチのサイフ裁判のエピソードを入れて、まるでダニーがリベンジを果たしたかのように見せかけています。エピソードの配列順を変えて読者を錯覚させるなんて、ちょっとした叙述トリックですね。
【第20章】“どん底”に落ちたダニーが「(不幸な人が)パンを落とすとバターを塗った方が下になる」という法則を発見する――と言えば、ことわざにひっかけただけの、どうということのない話になります。しかし、クイーン・ファンならば、『十日間の不思議』で“どん底”に落ちた名探偵エラリーが、『九尾の猫』で連続殺人の法則を見つけ出そうとしたことを連想しなければいけませんよ。
【第22章】ダニーが手品の練習をするシーンに注目しましょう。「ダネイが手品好き」という説の裏付けがとれましたね。
さて、みなさんは本書をどのように楽しんだでしょうか。少年小説として読み、ダニー少年と〈こがね色の夏〉【ゴールデン・サマー】を楽しんだでしょうか? それとも、クイーンの副読本として読み、これまで読んだクイーン作品では見ることのできなかった面を楽しんだでしょうか?
いずれにせよ、みなさんが楽しんでくださったことを信じて、この解説を終わりにしたいと思います。……本書にふさわしく、最後は詩でしめくくりましょう(ダネイほど詩の才がないので、コナン・ドイルの名句をもじらせてもらいました)。
はんぶん大人のクイーン・ファンと
はんぶん子供のクイーン・ファンが
いっときなれど楽しみなさりゃ
へたな趣向【かいせつ】も本望でござる
(2004年8月10日)
【エラリー・クイーンがトム・ソーヤーだった頃、ダニエル・ネイサン『ゴールデン・サマー』を読む】