単著としては二冊目の単行本になります。
何しろ前作『天才たちの値段』(文藝春秋刊)ではずいぶん大きな名前を連ねました。たとえば、
ボッティチェッリ
大航海時代の海図
フェルメール
正倉院御物
我ながら、まことに豪勢この上ない。ところで今回の『人形の部屋』を書くに際しては、はじめから正反対の方向を目ざしました。無名というか無銘というか、より私たちの日常生活に密着した文化財とつきあおうとしたのです。否、それどころか、あんまり生活に密着しすぎて、もはや文化財とは呼べなくなっているような材料をも。すなわち、
フランス人形
万年筆
花ことば
お子様ランチ
など。
ただし、これは私――作者――が気分転換を欲したせいではありません。ましてや、いわゆる「新たな読者を掘り起こす」ことを狙いとしたわけでもない。そういう意図もまあ皆無ではないけれど、結局、いちばん大きな理由は、私がそもそも人間の文化というやつを上記の両極端のうちに存在すると考えている、というところにありました。
私たちは美術館へ行く。そこでは世界の名だたる名作とじつにあっさり対峙することができます。私たちは家へ帰る。帰れば戸棚には旅行のおみやげのひとつも置いてあるでしょう。ところが私たちが、そのどちらに対しても、
「きれい」
とか、
「いいね」
とかいう言葉を発するのは、よく考えると不思議なことでした。モネの風景画と、九谷焼の花瓶とが等しく「きれい」であるはずがない。からです。両者は質的にまったく別のものであり、同列に評価するのは無理があるからです。しかしともかく私たちの口はそう言葉に出すのだし、出して疑うことを知りません。
これは趣味の分裂にほかならない、不統一にほかならないと決めつけると悪いことのようですけれど、どうでしょう、あるいは趣味の幅がうんと広いと積極的に評価すべきと言うこともできます。どちらを採るかは人それぞれでしょう。どちらにしても、二十一世紀に生きる私たちの「文化」に対する態度がおよそこういう茫漠たる、輪郭のはっきりしないものであることは、誰もが認めざるを得ないのではないでしょうか。
そういう私たちの「文化」への態度を、私はなるべく茫漠としたまま、輪郭のはっきりしないままに考えたいとかねがね思ってきました。というか、その一部分をむりやり明確にして「これが文化だ」と決めつけることは避けたかった。世界はわざわざ狭くするには及ばないからです。
となれば、その最善の方法、かどうかはともかく、少なくとも最も端的な方法は、二冊の本にそれぞれの極端を担当させ、それによって両者の中間を予感することにほかなりません。そういう仕事を、いわば小説家としての出航時におこなうを得たことに、私はとても満足しています。
本作の主人公、八駒敬典とつばめの父娘は、お料理を作ったり、パソコンを見たり、本を読んだり、言い争ったり、泣いたり、笑ったり、……いろいろしながら、こういう点ではまさしく二十一世紀の日本人の典型でありました。しかしまあ、そんな小難しいことは抜きにしても、彼らとの血のかよった人間どうしのつきあいから、私はさまざまなことを学んだ気がします。もしも私が小説の女神に感謝を捧げるとしたら、それは、彼らと出会わせてくれたことに対して以外ではあり得ません。
書き終えたいまは、ただただ八駒家の加餐を願うばかり。
(2007年12月)