エラリー・クイーンの偉大な点は、小説家として超一流だったにとどまらず、小説以外のさまざまな分野でも一流だったことにある。雑誌編集者、ラジオドラマの脚本家、アンソロジスト、書誌研究家、エッセイスト……そして犯罪実話作家。
本書には、現時点で判明しているクイーンの犯罪実話がすべて収録されている。クイーンのドキュメンタリーの魅力を、クイーンのこれまでほとんど知られていなかった魅力を、ファンのみなさんは味わってほしい。
本書収録作品は次の3冊に拠っている。
■1 『私の好きな犯罪実話』
1956年にアメリカのハイネマン社から刊行された『私の好きな犯罪実話』は、「世界の著名ミステリ作家による犯罪実話集」という副題が示す通りのアンソロジー。クイーン、E・S・ガードナー、クレイグ・ライス、エリック・アンブラー、レスリー・チャータリス、ナイオ・マーシュ、スタンリイ・エリン、サックス・ローマー、フランク・グルーバーといった一流ミステリ作家が、現実にあったお気に入りの犯罪について語っている。「ミステリマガジン」や1962年頃の「創元推理コーナー」に何作か訳されているので、憶えている読者もいるだろう。
同書には初出等のデータが記されていないが、どうやらアメリカの週刊誌(新聞の日曜版の別冊)「アメリカン・ウィークリイ」の1940年代からの連載企画の単行本化らしい。同誌編集者のE・V・ヘインが編者となっているし、序文には同誌の他の編集者に対する感謝の言葉も添えられているからである。
クイーンが取り上げた二つの事件はどちらも有名であり、特に「あるドン・ファンの死」のエルウェル事件は、(作中に言及されているように)ヴァン・ダインの『ベンスン殺人事件』の元ネタとなっている。読み比べてみるのも面白いだろう。蛇足だが、「あるドン・ファンの死」の原題は“Death of a Don Juan”で、『クイーンのフルハウス』収録の「ドン・ファンの死」(The Death of Don Juan)とよく似ているので、混乱のなきように。
なお、収録作品には編者のヘインによる作家紹介が添えられている。クイーンの紹介文を訳しておこう。この当時のアメリカで、クイーンがいかに人気があったかが、うかがえると思う。
世界中のありとあらゆる地域に住む人たちが(もしかしたらコンゴとフェゴ諸島の一部の住民は例外かもしれないが)“エラリー・クイーン”によって生み出された――実際にはフレデリック・ダネイとマンフレッド・リーという従兄弟コンビの共同作業によって書かれた――ミステリの長編や短編や中編やアンソロジーを知っている。ただし、家族と共にニューヨークのラーチモントに住んでいるダネイと、そのラーチモントからずっとずっと離れたコネティカットはロクスベリーのカントリー・ハウスに大人数の家族と共に住んでいるリーが、どうやって合作しているかという点については、誰も知ってはいない。まあ、1929年から続いてきた長距離合作の方法がどんなものであるにせよ、その成果は世界中に知られているのだが。エラリー・クイーンの長編は年に一、二冊出版され、フランス、イギリス、スカンジナビア、スペイン、ドイツ、南米と、大西洋の両側で盛んに刊行されている。さらにエラリー・クイーンの短編もまた、世界中の雑誌を賑わしているのである。
これらの業績に甘んじることなく、“エラリー・クイーン”はいくつもの外国版がある「エラリー・クイーンズ・ミステリマガジン」の編集もしている。加えて、アメリカ探偵作家クラブの会長を務め、エドガーズの役員にも名を連ね、「ミステリ界におけるめざましい貢献に対して」MWA賞を受け、エラリー・クイーン・チームの価値を高めている。
ここでみなさんに、アメリカ犯罪史上でも特に有名な二つの事件の謎に対する、エラリー・クイーンによる解釈をお目にかけたいと思う。「テイラー事件」と「あるドン・ファンの死」である。
紹介文中には「クイーンによる解釈」とあるが、残念ながら未解決事件を推理しているわけではない。同書収録の他作家の作品にも推理は見られないので、この「解釈」とは、「その作家独自の視点による事件の再構成」という意味なのだろう。とは言うものの、クイーン・ファンとしては、やはり〈解決編〉がないと物足りない。そして、この不満は次の本で解消されることになる。
■2 『エラリー・クイーンの国際事件簿』
「私の好きな犯罪実話」の連載が好評だったためか、「アメリカン・ウィークリイ」誌では1954年から55年にクイーンの犯罪実話を載せている。その連載をまとめたものが『エラリー・クイーンの国際事件簿』であり、1964年にデル社から刊行されている。
連載に際しては、「作家であり探偵であるエラリー・クイーンが、世界中の著名犯罪を取材してまわる」という魅力的な設定を導入。何しろ半世紀前の作品なので、今では国際情勢は大きく変わってしまったが(なくなった国もある!)、かえってそこが興味深いと言えるだろう。限られた長さで各国の風土や国民気質や国内情勢を描く手際は、さすがクイーンといったところである。例えば、アルジェリア篇の「目の前には巨大なアルジェリアの港が広がり、そこからは現代風フランスとイスラム風北アフリカの間にある一触即発の雰囲気がただよってくる」といった表現などは、この当時のアルジェリアを知っていれば、思わずうなずいてしまうはずだ。
しかし、何と言ってもすばらしいのは、現実の犯罪を本格ミステリに仕立てる手際である。叙述に工夫を凝らし、伏線を張りめぐらし、とても実話とは思えない面白い本格ミステリを作り上げているのだ。読者はクイーンのテクニックの鮮やかさに感心するに違いない。また、“本格ミステリ”と言うよりは“オチのあるショート・ショート”と呼んだ方がいい短編もあるが、それさえもオチの伏線がきちんと描かれているのだ。
特に見事なのは、冒頭に張られた伏線である。例えばパリ篇の冒頭で語られる「愛と世間体」の伏線が、物語の中盤と終盤でまったく別の意味をもって用いられているといった具合に。各短編を読み終えた読者は、もう一度これらの冒頭部分を読み返してほしい。
ここで翻訳について少々。本作には舞台となる国の言葉が登場するのだが、原文に合わせ、以下の二種類の表記を使い分けている。
- 原文に註記がないもの(アメリカ人にとっては註釈不要の言葉)は、日本語に訳し、原語の発音をカタカナルビで添えた。
(例)原語:pescador →訳語:漁師【ルビ:ペスカドール】
- 原文に註記があるもの(アメリカ人にとって註釈が必要な言葉)は、原語の発音をカタカナで表記し、原註部分を日本語に訳してカッコ内に入れた。
(例)原語:Bella Senora, Beautiful Lady →訳語:ベラ・セニョーラ(美女)
ただし、第二話の日本篇だけは、原語が日本語なので、以下のように訳している。
- 原文に註記がないものは、日本語を表記し、読みをカタカナルビで添えた。
(例)原語:tatami mats →訳語:畳【ルビ:タタミ】マット
- 原文に註記があるものは、読みをカタカナで表記し、原註部分はそのままカッコ内に入れた。
(例)原語:Gambare! Be brave! →訳語:ガンバレ!(Be brave!)
各国の風俗・固有名詞・言語については、できる限り調べたが、まだまだ不十分と思う。読者諸賢の御叱正を乞う。
なお、『国際事件簿』中の八編は、光文社の「EQ」誌に1998年から拙訳で連載されたものが元になっている。その連載中には、同誌の編集者・北村一男氏に大変お世話になった。ここに記して感謝する。
■3 『事件の中の女』
「国際事件簿」の連載が好評だったためか、「アメリカン・ウィークリイ」誌では、1958年から59年にもクイーンの犯罪実話を掲載している。その連載をまとめたものが『事件の中の女』であり、1966年にバンタムブックスから刊行されている(ちなみに、「国際事件簿」と「事件の中の女」の間の連載は、E・S・ガードナーの犯罪実話)。
こちらは「女性がらみの犯罪実話集」という縛りがあるのが異なるが、女性は犯人でも被害者でもいいので、さほど意味はない。むしろこの本で注目すべきは、犯人や被害者の内面を描くことに力が注がれている点である(もっとも、それが本来の犯罪実話なのだが……)。クイーンの小説【ルビ:フィクション】は、本格ミステリであるために、登場人物の内面を描くことは難しい。しかし、同書ではこういった制限がなく、作者は自在に犯人の内面に分け入っている。クイーン・ファンにとっては、『国際事件簿』とは逆の意味で、興味深い作品集と言えるだろう。
同書にはさまざまなノンフィクションやフィクションで扱われている有名な事件が多い。それらと比べて、クイーンの方はセックスがらみの描写が控えめであることに気づく。例えば「〈孤独な心〉の軌跡」の犯人カップルの変態的な関係や、「大きな耳を持つ男」の猟奇的な殺害記録、それに「『女王陛下より沙汰あるまで拘留』」の犯人二人のレズビアン関係などを、クイーンはほとんど描いていない。こういった面に力点を置いたコリン・ウィルソンの著書などと読み比べてみるのも一興だろう。また、「『女王陛下より―』」の事件は『乙女の祈り』という題で1994年に映画化されているので、観た人ならば、より一層楽しめると思う。
ちなみに、「『女王陛下より―』」の事件には、他にも面白い点がある。実は、犯人は二人とも1959年に釈放され、ジュリエットの方はミステリ作家になったのだ――アン・ペリーという名で、「エラリー・クイーンズ・ミステリマガジン」にも寄稿している作家に。
最後に、クイーン・ファンにとって、もっとも興味深い点を挙げておこう。F・M・ネヴィンズJr.によると、『国際事件簿』と『事件の中の女』に収録された犯罪実話は「『アメリカン・ウィークリイ』誌の編集部が提供した現実の事件の資料をもとに、リーが小説化した」というのだ。つまり、ダネイの手を借りずに、リーが単独で書いた作品なのである。クイーン作品は「ダネイが考えたプロットをリーが小説化した」と言われているので、これら二冊では、ダネイの役割を雑誌編集部が果たしたとも考えられるだろう。すなわち、本書を読むと、リーがクイーン作品のどの部分を担当したか、あるいは、しなかったか、が見えてくるわけである。本格ミステリの形式にさほどこだわっていない点や、犯人の内面描写に力が注がれている点などからは、リーの資質がうかがえるし、手がかりとそれに基づく論理的な推理が乏しい点からは、ダネイの資質がうかがえるだろう。また、一文が比較的短く、もってまわった表現が少ないところから、リー本来の文体がわかる。
なお、クイーンの1968年の長編『真鍮の家』の冒頭には、「(探偵エラリーが)犯罪の美食をご馳走になるために世界各国の警察署長を訪ねてまわった」という文が出て来る。これは明らかに『国際事件簿』のことだろう。つまり、本書はまぎれもないクイーンの外伝なのだ。ファンならば、「絞殺されたオランの花嫁」の戦争後遺症の扱い方や、「浮気娘の奇妙な病」の徹底的な捜査や、「クルーピエの犯罪」に登場する“神”や、「赤い処女」におけるピグマリオン的人物に、クイーンらしさを感じとることができるだろう。また、『事件の中の女』においても、「検察側の証人」での異常な裁判や、「大きな耳を持つ男」に登場するサイコキラーや、「毒入りウィスキー事件」での毒殺の皮肉などに、クイーンの香りを嗅ぐことができるに違いない。
そしてまた、現実の犯罪を素材とし、ある時は本格ミステリ仕立てに、ある時は犯罪心理小説仕立てに、ある時は〈奇妙な味〉仕立てに、またある時はオチのあるショート・ショート仕立てにするクイーンの才能が味わえることも確かである。
要するに本書は、犯罪実話としてもミステリとしてもクイーン外伝としても楽しめる、実に面白い作品集なのだ。
【原題一覧】
『エラリー・クイーンの国際事件簿』 Ellery Queen's International Case Book
エル・プエルトの美女 The Beautiful Lady of El Puerto
東京の大銀行強盗 Tokyo's Greatest Bank Robbery
フォス警部最後の事件 Inspector Fosse's Last Case
ブエノスアイレスの屠畜人 The Butcher of Buenos Aires
アダモリスの詐欺師 The Swindler of Adamolis
絞殺されたオランの花嫁 The Strangled Bride of Oran
死の顎 The Jaws of Death
カーリーの呪い The Curse of Kali
バルカン風連続犯罪 Crime Wave, Balkan Style
ナショナル・ホテルの謎の銃弾 The Mysterious Shooting at the Nacional
両眼を失った青年 The Young Man Who Lost His Eyes
マニラに死す Death in Manila
アボリジニの中の死 Death among the Aborigines
浮気娘の奇妙な病 The Curious Case of the Flirt
クルーピエの犯罪 The Crime of the Croupier
アフリカのラヴ・ストーリー African Love Story
ハーレムの秘密 Secrets of the Harem
上海の銃撃 The Shanghai Shootings
赤き処女 The Red Virgin
聖地の受難 Passion in the Holy Land
『私の好きな犯罪実話』 My Favourite True Mystery
テイラー事件 The Taylor Case
あるドン・ファンの死 Death of a Don Juan
『事件の中の女』 The Woman in the Case
〈孤独な心〉の軌跡 Trail of the Lonesome Hearts
検察側の証人 Witness for the Prosecution
「女王陛下より沙汰あるまで拘留」 “Detained at Her Majesty's Pleasure”
アイリーン・シュレーダーの秘密 The Secret of Irene Schroeder
美しきラトビア人 The Beautiful Latvian
黄色い糸の謎 The Mystery of the Yellow Thread
エレーン・ソウレの奇妙な事件 The Strange Case of Elaine Soule
夢探偵 The Dream Detective
茶の葉に現れた死 Death in the Tea Leaves
大きな耳を持つ男 The Man with the Jug Ears
雪だまりの中の女 The Girl in the Snowbank
毒入りウィスキー事件 The Poisoned Whiskey Case
驚くべきパターソン夫人 The Amazing Mrs. Patterson
絹靴下の女 The Silk Stocking Girl
吊された女 The Hanging Woman
死体なき殺人 The Murder Without a Body
ハムステッドの美しき殺人者 The Beautiful Killer of Hampstead
愛の聖堂 The Temple of Love
ロンダ・ベル・マーティンの謎 The Mystery of Rhonda Bell Martin
(2005年8月10日)
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