【第58回日本推理作家協会賞受賞】
戸松淳矩『剣と薔薇の夏』
解説[全文]戸川安宣

戸松淳矩『剣と薔薇の夏〈上・下〉』
創元推理文庫(国内ミステリ)

剣と薔薇の夏〈上〉  畢生の大作、という言葉がある。この作品こそ、まさにその名に相応しい。
 戸松さんがソノラマ文庫の1冊『名探偵は千秋楽に謎を解く』でデビューしたのは、昭和54年のことだった。昔ながらの人情味溢れる下町を活写し、登場人物の軽妙なやりとりの中に謎解きの面白さを絡めた作風は、当時から一部のファンを瞠目させていた。翌年、引き続き『名探偵は九回裏に謎を解く』が出、しばらくしてから雑誌〈獅子王〉で「墨田川幽霊グラフィティ」が連載された。ただし、これは単行本化されることもなく、以降長い沈黙が続いた。
 本作は、それから実に17年ぶりの新作である。

歴史ミステリ
 本作は、万延元年(1860年)の遣米使節団歓迎に沸き立つニューヨークを舞台にした歴史ミステリである。安政5年6月19日(1858年7月29日)、ハリスと井上清直、岩瀬忠震との間で調印された日米修好通商条約の案文を検討していた最中に、日本側委員からアメリカに使節団を派遣したい旨申し出、これをハリスが了承して決まったというが、安政の大獄などもあって延期に延期を重ね、ようやく安政6年(1859年)12月にアメリカ軍艦バウアタン号が迎えにくるに及んで翌万延元年1月22日(1860年2月13日)出航の運びとなった。一行はハワイのホノルルに寄港した後、3月末、サンフランシスコに上陸。さらにパナマ地峡を列車で移動し、ロアノーク号に乗り換えて陽暦5月14日ワシントン入りした。そしてニューヨークには6月17日に到着。2週間余を過ごし、喜望峰沖からジャワ、香港を経て万延元年9月27日(11月9日)帰国した。8か月余の地球を一周する大旅行であった。
 この道米使節団を護衛するという任務を帯び、バウアタン号の出発に先立つこと三日、浦賀を発ってサンフランシスコへ向かったのが、咸臨丸(かんりんまる)である。こちらには艦長として勝安房(海舟)のほか、福沢諭吉や中浜万次郎などが乗っていたので、一般にはこちらのほうが人口に膾炙しているだろう。
 それはさて、新見正興以下の日本人使節団一行を迎えるニューヨークでの連続殺人事件を描く歴史ミステリ――それも日本人が書いたとなると、この使節団の中の一人が探偵役になる、と誰もが考えるだろう。そうでなければ、本書の場合、ジューゾ・ハザームという魅力的なキャラククーが創造されている。この在アメリカの日本人に探偵役を務めさせるというのが常套的である。ところが豈図らんや、ホームズ、ワトスン役はアトランティック・レヴューという新聞社の人間が務めるばかりか、全編を通し、アメリカ人の視点から日本人を眺めているところが本書のもっともユニークな点である。

ミッシング・リンク
 遣米使節団がまもなくニューヨーク入りする、という頃、一人の殺し屋が殺され、続いて株式仲買店の経営者が殺される。一見無関係に見える事件の間にふたつの要素が発見される。
 ひとつは、第一の被害者の死体の近くに日本使節団歓迎準備委員会のメンバーに配られた縫い取り記章が落ちており、第二の被害者がその歓迎委員会の参事を務める人間だったことで、にわかにこのふたつの事件が今まさにニューヨーク中を興奮の渦に巻き込んでいる日本使節団と何らかの関係があるのでは、と疑われるのだ。
 もうひとつ、このふたつの事件には共通点があった。どちらも、死体の近くに旧約聖書の一節が――正確に言うと、スタンリー書店発行の『聖書物語』の中の1ページが切り取られて置いてあったのだ。第一の事件にはノアの方舟の、第二の事件には燔祭に捧げられるイサクのシーンが……。
 さらに詳しく調べてみると、どちらの場合も非常に不可解な状況が浮かび上がる。第一の被害者は、一度高いところから突き落とされた後、ふたたび建物の最上階に担ぎ上げられていた。第二の被害者は、溺死させられた後、火をつけて燃やされている。なぜこんなことを犯人はわざわざしたのだろう。この謎の解釈をめぐるダロウとフレーリの論戦はなかなかスリリングだ。こういう逆説的な状況は引き続いての事件でも見られ、犯人は密室状況の扉をわざわざ内部から爆破したりする……。
 こういう幾つかの謎が折り重なってさらに深い謎を形成する重層構造になっているのが本書の特色だが、そればかりではなく、当時の社会や政治状況が事件と有機的に結びついており、単に物語に彩りを添えるだけの時代設定ではないところを、見落としてはならない。
 余談だが、本書のカバー絵を描いていただいた津神久三氏は長くニューヨークでイラストレイターとして活躍されていた方だが、本書のゲラを読んでいただいたところ、はじめこの作品はアメリ力作家のものの翻訳だと思われたそうである。それにしてはうまい日本語だなあ、と感心しながら読んだ、というお話を伺い、してやったりと思ったものだ。それだけ、街や人物の描写が精緻だという証左であろう。たしかに、本書の描写の克明さ、書き込みの見事さは一驚に値する。多くの人が初めて見る目本人に興奮するパレードの描写などは、現代のノンフィクションを読むような感じすら与える。まずはこのずっしりと内容の詰まった小説を堪能していただきたいが、その綿密な描写の中に、極めて巧妙に推理小説の伏線が張られていることを見逃さないでいただきたい。

戸松淳矩(とまつあつのり)
剣と薔薇の夏〈下〉 昭和27年12月31日京都市生まれ。ただし、大晦日のため、役所への届け出は明くる28年の1月8日(したがって、戸籍上の誕生日は同日)。
 昭和50年3月学習院大学文学部哲学科卒。家業を手伝うかたわら、創作に手を染める。51年、〈小説サンデー毎日〉新人賞に応募した短編「証言者」が最終候補に残る。事件の証言者はいるが、証拠がないため、捜査側が罠を仕掛けて犯人でなければ知り得ない事実を容疑者本人に立証させる、というストーリーで、当時放映されていた「刑事コロンボ」の手法からヒントを得て書いたものだという。因みにこのときの受賞作は中堂利夫「異形の神」だった。この賞の選考委員だった故山村正夫の誘いで、52年頃、推理文学会に入会。同氏の紹介もあって、朝日ソノラマから書き下ろしの依頼を受け、54年に『名探偵は千秋楽に謎を解く』を上梓。つづいて翌年、『名探偵は九回裏に謎を解く』を発表。朝日ソノラマのミステリ路線としては辻真先、赤川次郎氏などにつづき、風見潤、深谷忠記氏などとほぼ同期である。その後、天藤真『大誘拐』を刊行したカイガイ出版から初めて大人ものの依頼を受けたが、書き上げる前に企画が頓挫し、それを徳間書店が引き継ぐ格好になったものの、結局陽の目を見ることはなかった。そうこうしているうちに、また朝日ソノラマから、雑誌〈獅子王〉に長編を分載したい、という依頼があった。ただし、前の2作を出してすでに7年たっているので、読者も替わっているから主人公を替えようということで、設定を若干違えた「墨田川幽霊グラフィティ」を執筆。3回分載だったが、結末にもう少し枚数がほしいと言っても聞き入れてもらえず、駆け足になったのが今でも悔やまれ、それを今回初めて上梓するに当たり、前の2作と同じ登場人物の設定に直すとともに、結末部分も思いのまま書き足すことができた、という。
 子供の頃はそれほど読書好きではなかったというが、小学校5年頃、図書委員に選ばれたこともあってドイルの『バスカヴィル家の犬』を手にし、こんな面白い小説があるのか、と感動。以後、次々と子供ものの推理小説を読破。中学になってからは新潮社や東京創元社の文庫でクイーン、クリスティ、カーなどを読む。高校時代、地元の高校に松本清張が講演に来たことがあり、それをきっかけに清張をはじめ、大学生の頃ブームだった横溝正史、そして乱歩へと逆のコースをたどって日本ものも読むようになった。
 好きな作風は重厚な英国の本格派。古典をのぞけば、ラヴゼイ、デクスターといったところ。ミステリ以外でも、ディケンズをはじめ、やはりイギリスの小説が好きだという。高校時代の同級生に噺家、春風亭栄橋の知り合いという人がいて、寄席に連れて行ってもらううち、落語のファンになったという。名探偵シリーズの落語的な人物描写や軽妙なやりとりは、この辺から生まれているのだろう。

作品リスト
1 名探偵は千秋楽に謎を解く 1979 ソノラマ文庫 創元推理文庫
2 名探偵は九回裏に謎を解く 1980 ソノラマ文庫 創元推理文庫
3 墨田川幽霊グラフィティ 1987 〈獅子王〉2・3・4月号連載
4 剣と薔薇の夏 2004 東京創元社 創元推理文庫
5 名探偵は最終局に謎を解く 2004 創元推理文庫(3の改稿版)


本書ができるまで
 最後に個人的な想い出を書くことをお許しいただきたい。
 昭和も残り少ない62年(1987)頃、僕は日本人作家による書き下ろしの企画を立てていた。創元推理文庫に日本人作家の作品を入れようと、その口火を切るために北村薫さんのお力を借りて『日本探偵小説全集』全12巻の企画を立て、その企画段階で鮎川哲也先生にお目にかかり、お知恵を拝借したりしていた。その折、先生が講談社の「書き下ろし長篇探偵小説全集」の、13番目の椅子に応募して鮎川哲也として再デビューを果たされた、というエピソードを思い出した。それを東京創元杜でもやってみようか、と思いついたのが発端だった。しかし、当時はまだほとんど作家とのお付き合いがなかった。なにがしか新味を出したいという思いもあった。そこで、以前からの知り合いで、書けそうな人、書きたいと思っている人に当たってみた。北村薫さんや折原一さんがそうである。たまたまその頃、折原さんがオール読物推理小説新人賞に応募したという話を耳にしたので連絡し、応募作を読ませてもらった。その折原さんから同賞に応募した有望な女性がいる、と聞き、連絡をとったのが宮部みゆきさんだった。さらに、真っ先に書き下ろしをお願いした鮎川先生から、こういう人がいる、と紹介されたのが有楢川有栖さんであり、笠原卓さんだった。
 その10年ほど前から、匿名で朝日新聞などに書評を書いていたが、その中で印象に残っていたひとつが、朝日ソノラマのジュヴナイル・ミステリであった。就中(なかんずく)『仮題・中学殺人事件』などの辻真先、『死者の学園祭』などの赤川次郎、そして『名探偵は千秋楽に謎を解く』などの戸松淳矩氏は抜きんでた存在だった。ことに辻さんには是非この人に大人もののミステリを書かせてみたい、と思っていた。しかし、当時は創作のミステリは手がけていなかったので、他社からミステリの連載小説をやってみたいが誰かいい作家はいないか、などという相談を受けたときに(まだご本人とは一面識もなかったのに)辻さんを推薦したりしたこともあった。ああ、自分の社でやれたらなあ、という忸怩たる思いがあったので、この機会に是非と、お願いに上がった。ジュヴナイル以外でもこれはと思いお声を掛けたのが、岩崎正吾、種村直樹氏などである。変わり種は、お世話になっていた海外著作権エイジェントを辞めてフリーのライターとして仕事を始めていた山崎純氏で、実際に観ていないツール・ド・フランスのレースを、海外の雑誌記事などからいかにも観てきたように纏めた観戦記に感心して、お願いしたケースだろう。
 そんなこんなで、63年から始めた《鮎川哲也と十三の謎》のシリーズのときから、戸松さんに依頼をしていた。もちろん、まったく面識はなかったが、作者紹介の欄に推理文学会同人とあったのを手がかりに、たぶん山村正夫氏に紹介していただき、連絡をとったのではなかったろうか。僕も〈推理文学〉創刊時に中島河太郎先生や山村さんに声を掛けていただき、同人にこそならなかったが、海外ミステリの紹介文などを書かせていただいた縁があった。たしか新宿辺でお目にかかった戸松さんは、名探偵シリーズからイメージしたのとはだいぶ印象の違う、老成された方であった。『名探偵は千秋楽に謎を解く』などの作品を大変面白く読ませていただいたことと、これから始めようとしている書き下ろしシリーズのねらいをお話しし、是非小社で書いていただけないか、とお願いしたところ、二つ返事で快諾を得たときにはまさに天にも昇る思いだった。ただし、名探偵シリーズの軽妙な作風とは違って、ご本人は極めて慎重な方だったから、少し時間を掛けて取り組みたい、というお話で、第一シリーズの《鮎川哲也と十三の謎》の構想からは外し、次の《創元ミステリ'90》のラインナップに組み入れていた。その初期の段階で、1千字程度のレジュメをいただいた。タイトルこそ現在のものとは違っていたが、大筋はまさしくこの『剣と薔薇の夏』であった。
 ところが、これがなかなか仕上がらない。あっという間に、2年経ち、3年経ち……と、時間は経過し、第3シリーズの《黄金の13》にも間に合わなかった。そしていつしか、お願いしてから10年近くが経過した。さすがにこれはだめかな、と諦めかけた時期もあった。そして、年賀状の最後で、如何ですか、とご様子を伺う程度になっていたのだが、そろそろ編集の仕事からリタイア、と思うようになった時に、やはり心に残っていたのは、戸松さんのことだった。これを本にしないまま辞めるのはなんとしても残念だ。その思いが、最後の一押しとなった。こちらの事情をお話しし、それまでになんとか仕上げていただくわけにはいかないだろうか、と。
 そんなやりとりの末に、ようやく1章ずつフロッピーでいただくようになった。今、完成したゲラを改めて眺めてみると、全28章。ということは28回以上、ある時は会社に来ていただき、ある時は新宿で、またあるときはお住まいの近くでの受け取り作業が繰り返された。かなり終盤に近づいたあるとき、約束の時間になかなか現われなかった戸松さんに代わり、妹さんが章半ばまでのフロッピーを持ってこられ、兄はここまで書いたところで体調を崩して臥せっている、とおっしゃるので、びっくりしたこともあった。そういう紆余曲折を経て、足かけ3年に及んだろうか。ようやくこの大作は完成をみたのだった。
 今は、戸松さんの本作を上梓するために編集者になったような、そんな気分にさえなっている。しかし、この作品が15年以上待つ甲斐のあった出来であることば、お読みになった皆さんには、もはや説明するまでもあるまい。

【以下、文庫版追記】
日本推理作家協会賞受賞
 こうして刊行された『剣と薔薇の夏』は、刊行翌年の2005年、第58回日本推理作家協会賞の長編および連作短編集部門にノミネートされ、みごと貴志祐介氏の『硝子のハンマー』とともに受賞の栄に輝いた。
 しかし、著者が受賞の言葉として語っているように、「刊行された後も注目されることの少ない、私にとっていわば『不憫な子供』のような存在」だったのが、協会賞の候補に挙げられるということ自体、予想外のことだった。
 ごらんのように大部で、じっくりと書き込んである内容は、読者の方に気軽に手にとっていただけるというものではない。そう思っていたので、刊行前から手広く献本して書評に期待をかけた。これがなかなか出ない。出ても、歴史ドラマに推理が埋もれている、といった見方が大半を占めていた。やはりカーのように、怖いですねえ、不思議ですねえ、と太鼓を叩かないとだめなのかしら、とやや悲観的になった。
 そんな中で逸早く採り上げていただき、再三にわたって激賞し喧伝してくださった大森望氏には感謝の言葉もない。そのお蔭もあったのではないか、協会賞にノミネートされたが、新人のようなものですから、と謙遜するご本人ともども、あまり大きな期待は抱いていなかった。
 選考会の当日、会場近くにある馴染みの喫茶店カフェ・ド・ランブルでランブレッソを舐めながら待っていると、夕方の五時過ぎ、協会から電話が掛かってきた。息を呑んで見守る中、席を立って受話器を握った戸松さんの顔から、結果はまったく読み取れない。電話を切る段になってようやく、戸松さんは親指と人差し指とでマルを作り、はにかむようににっこりと笑った。
 受賞、と知った瞬間、何ともいえぬ感慨にとらわれた。それからおもむろに会場に向かい、様々な人から祝福の言葉を頂戴した。中には僕にまで「よかったですね」と言ってくださる方もいた。そして記者会見となったのだが、戸川さんがとても嬉しそうでしたね、と宮部さんがおっしゃっていたと後で聞いた。会見に列席していて、よほどしまりのない顔をしていたのだろう。
 選評の中で、「圧巻は謎解きですべての伏線がきれいに収束された。これほどの労作を顕彰するのは推理作家協会賞しかない、とわたしは思った」という黒川博行氏の評が心に響いた。
 僕にとっては第44回の協会賞で、北村薫氏の『夜の蝉』が短編および連作短編集部門を受賞して以来の経験である。『夜の蝉』は《創元ミステリ'90》の1冊として刊行されたが、前にも記したように『剣と薔薇の夏』も、同じ叢書にラインナップされていたのだ。奇しくもその北村さんが、当日の司会を務めていた。その声を聞きながら、44回と58回という時間の流れが脳裏を過(よ)ぎった。僕は記者会見の場に坐りながら、不思議な縁(えにし)を感じていた。

(2005年6月10日/2005年9月28日)

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