あらずもがなのあとがき
北村薫『ニッポン硬貨の謎』
解説[全文]戸川安宣

北村薫『ニッポン硬貨の謎』
単行本

ニッポン硬貨の謎  せっかくこのよくできたパスティーシュの中に、いろいろな形で登場させてもらっているのだから、この拙文も「あらずもがなのあとがき」というタイトルで、J・J・マックよろしく北村さんの小説に1章を書き足す感じで書くのが、もっとも相応しいやり方のように思う。あるいは、「解説」として中島河太郎調でいくか、とも考えたが、どうもうまくいかない。結局、才能がないのだから、と諦めざるを得なかった。
 それに対して、北村さんの達者さはどうだ。本書の冒頭、クイーン父子のやりとりを読んでいると、クイーンの未発表原稿が見つかったのか、と思ってしまうほどの名調子である。読みながら、思わずこみ上げてくる笑いを堪(こら)えることができなかった。
 だが、本書はただのパスティーシュではない。みごとなエラリー・クイーン論になっている。しかもその内容はきわめて独創的で、かなりクイーンの作品を読み込んだ人でないと論旨を追いかけるのは大変である。逆に言うと、クイーンを熱愛する人には堪(こた)えられない作品と言えよう。
 ところで、「あらずもがなの序」などで著者が書いているのとはちょっと違った形で、僕はこの作品の成立に関与している。その辺のことをお話しするために、些か個人的な思い出話に筆を費やすことを、お許しいただきたい。

 昭和41(1966)年4月、進学した立教大学にミステリ・クラブがなく、茫然とした僕はとりあえずハヤカワズ・ミステリ・マガジン・ファン・クラブに入会した(その後SRの会という全国規模のミステリ同人にも参加した)。契約問題から早川書房が〈エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン〉(EQMM)日本版から〈ハヤカワズ・ミステリ・マガジン〉(HMM)へと誌名を変えたのを機に、ミステリファンの交流の場を作ろう、というのがファンクラブ設立の趣旨であった。その会を主宰していたのが、ワセダ・ミステリ・クラブの米浪平記さんという方だったこともあって、ワセミスの人たちに後押しされて僕は母校にミステリ・クラブを作った。その縁で、頻繁に早大のクラブに顔を出させてもらうようになった。当時のワセミスの人たちは大学近くのモンシェリという喫茶店に集まって――というより、屯して、といった方が適切だと思うが――いた。日中にそこへ行けば、誰かが必ずいたし、いない人はその隣の雀荘かラーメン屋にいる、と言われていたが、これは決して大げさな表現ではなかった。モンシェリで本書の中にもちょっと触れられている柴隆夫さんなどと話していると、後ろの席にいたのが伊藤典夫さんだったり、大井良純さんだったりした。4月の末だったかに開かれた新入生歓迎会にも出席させてもらった。ゲストが作家になったばかりの生島治郎さんと宇宙塵の柴野拓美(小隅黎)さんで、柴野さんとはこのときが縁で機関誌を送り合うお付き合いが始まった。せっかくだから生島さんにも何か伺おう、と思ったが、僕は生島さんの小説を何も読んでいなかった。しかたなく、僕が尋ねたのは、「奥さんはもうお書きにならないんですか」ということだった。生島さんは一瞬むっとして、「もう書かんでしょう」とおっしゃった。言うまでもなく当時の生島夫人とは、『弁護側の証人』の小泉喜美子さんである。
 こんな具合にワセミスとのお付き合いが続き、3年生になったある日、僕の記憶では都筑道夫さんの講演会だったかがあったときに早大に出かけた。お話が終わり、二次会会場として設定された喫茶店に向かおうというとき、初めて見る顔の新入生が妙に親しげに近寄ってきて、さも嬉しそうに話しかけてきた。それが北村さんだった。
 その後、北村さんはワセミスの機関誌とは別に、〈じゅえる〉という個人誌を作った。創刊号の奥付には7月16日発行とだけあって、年号がない。4号のカー・ベストテンに僕が東京創元社の戸川として投票し、一つ違いの瀬戸川猛資氏がワセミスの現役として参加しているところからすると、この号は昭和45年発行ということになる。発行年月の記載はないが、第2期とあり、それから逆算すると創刊は昭和44年の7月と思われる。初めての出逢いの1年後である。
 ついでに言うと、本書の中で編集者の白井がエラリーたちを前にして歌舞伎の見得を切る場面の実演をしてみせるが、これは瀬戸川氏のイメージからきているのではないか。彼はなにより座談の名人だった。好きな小説や映画の話を、いかにも面白そうに話すのだが、目鼻立ちの非常にハッキリした人で、その太い眉をきっと吊り上げ、口をへの字にして、「だってそうでしょ〜お」と言うのである。――要するに歌舞伎役者が見得を切るが如き形相をしながら語って聞かせるのだ。僕たちはその話に聞き惚れ、またその姿に見惚れていた。後の著作『夜明けの睡魔』『夢想の研究』などの名調子はご存じの通りだが、ご本人と面識のあった者は、読みながらついつい彼の表情を頭に思い浮かべてしまうのである。そして、北村さんはその瀬戸川氏の形態模写の名人であった。
 爾来、僕は〈じゅえる〉の7号で慶應大学推理小説同好会の松坂健氏とルパン雑談をやっているくらいだ(因(ちなみ)に、この号の編集後記には、はっきり昭和47年5月17日と日付がある)。それにしても、この個人誌には、折原一氏の「おじさんのベスト3」なんて記事が、さりげなく載っていて、今となっては、大変なお宝である。
 北村さんがお書きになっているものによると、その〈じゅえる〉を届けるために、たまたま通学途中にあった僕の家まで寄ってくださったことがあるらしい。そんなこんなで北村さんとのお付き合いは続いていった。
 僕は4年時にSRの会の機関誌の東京編集分を受け持ったが、東京創元社に入ることになってその任を降りた。推理文壇の野党的存在であるSRの会の機関誌を出版社の人間が編集するわけにはいかない。そこで後を瀬戸川氏や松坂氏に託したのだが、しばらくするとまた同人誌が作りたくなった。その2人と北村さんを誘って「正義の四人」The Four Just Men という同人を結成しようとしたこともあった。
 そんな頃だったと思う(北村さんは本書の中で、それは「一九七〇年の夏」だと記している)。北村さんからまとまった原稿をお預かりしたことがある。何かと思ってタイトルを見ると、エラリー・クイーン論とあった。北村さんはそれを読んでほしいと言いながら、実は未だ半分なんです――と照れくさそうに言ったのである。
 これが実に衝撃的な内容だった。国名シリーズから始まってライツヴィルものなどの中期作品に差し掛かったところまでが論じられていた、と記憶する。論文の前半は、国名シリーズの中で読者への挑戦状が挿入されなかった『シャム双子の謎』について、詳細に論じられていた。その部分は本書の第2部12節から18節にかけて小町嬢の説として紹介されている。そして後半は、クイーンの中期からの作品に表れるねじれ現象について論じられているのだが、この部分に関してはこの作品では触れられていない。当時も未完だった北村さんのクイーン論の後半部分は、また別の長編を支えるアイディアとして、いつの日かわれわれを楽しませてくれるのだろうか。大いに期待して待ちたいと思うが、ともあれ、興奮して読んだその時の僕は、原稿を返しながら、早く続きを読ませてほしい、と催促した。けれども、北村さんも、その後、就職活動やら卒論やらで忙しかったのだろう、続編はお預けになったまま時間が経過するうちに、肝心の前半部分の原稿が紛失してしまったという。
 こうして、北村クイーン論は幻の原稿となりかけたのだが、後に家捜しをしたところ、無事に発見されたと聞いて、ほっとした。では、続きを書いて公表しよう、と持ちかけると、その頃には北村さんは作家として歩み出しており、やがて小説の形にして発表したい、とのことであった。それが先ほども述べたように、ここにこうして実現を見たわけである。
 それからさらに数年の時が流れ、どういう経緯だったかハッキリ記憶していないが、〈EQ〉の創刊を傍観していた僕に、『王家の血統』を訳さないか、という話が舞い込んだ。好きなクイーンの、当時も今も第一級の研究書を翻訳する機会が与えられたということで、僕は嬉しくなって、まず僕以上にクイーンが好きな北村さんに一緒にやらないか、と持ちかけてみた。二つ返事で承諾した彼が、2人では大変だ、ということで三津木、折原の両氏を誘おう、ということになったのだと思う。それから4人でよく銀座の三笠会館のティールームで落ち合い、分担や進め方を相談したのである。訳者名は4人の本名から一字ずつを取ってひねり出した。こうして、フランシス・ネヴィンズ・ジュニアによるエラリー・クイーンの評伝『王家の血統』(1975年MWAのエドガー特別賞を受賞)は、光文社発行〈EQ〉誌の創刊第3号に当たる1978年の5月号から6回にわたって連載された。
 4人とも、プロの翻訳家ではなかったし、本書の中でも北村さんが触れているように、バールストン・ギャンビットなどという初めて聞く用語が飛び出したり、と手を焼いたが、クイーンに対する敬愛の念は誰にも負けなかったので、なんとか訳しきることができた。(後年、綾辻行人氏が『十角館の殺人』でデビューしたとき、その中にバールストン・ギャンビットという言葉が出てきて、仰天した。こんな言葉を、殆ど説明もなしに使って良いものだろうか、と思ったものである)
 さらに時は流れ、創元推理文庫に〈紙魚の手帖〉という折り込み冊子を挿入することになったのは昭和58(1983)年のことである。創刊号は同年5月。そして翌年8月の第16号から「女子大生はチャターボックス」というタイトルで、レギュラー3人とゲスト1人、ないし2人という編成でのしゃべくり書評を掲載した。対象は東京創元社でそのひと月に出した新刊全点。推理文庫はもちろんのこと、ジャン・コクトー全集から現代社会科学叢書まで、東京創元社で刊行したものは何でも扱ってもらった。当時、テレビの深夜番組で、女子大生に様々なレポーターをやらせたり、司会をさせたりする番組があったが、これを観ていて思いついたのが、このしゃべくり書評だった。そのレギュラーの1人、木智みはるというのが、本書の小町奈々子のモデルで、後の若竹七海さんである。(さらに言えば、ゲストの1人、奈々村ねこというのが、後に『いざ言問はむ都鳥』を書く澤木喬さんであった)
 そしてそれと同じ頃、僕は北村さんに電話をして、ある企画の相談をした。
 入社以来考えていたことだが、創元推理文庫に日本の作家を入れたい、しかしこれまで海外ミステリ専門の文庫と謳ってきたところに日本人作家を入れるには、それなりにエクスキューズが必要だろう。そこで考えたのが、文庫版の全集であった。僕の頭には、中島河太郎先生のことが浮かんでいたが、先生のところに相談に伺う前に、基本的な線を固めておきたい。そういう相談には、北村さんをおいてほかにない、と僕には思えた。
 こうして、日本探偵小説全集の第1回配本『江戸川乱歩集』が刊行されたのが1984年の10月である。そして、その解説などのお願いに鮎川哲也先生を訪ね、鎌倉を散策しながらお話ししているうちに、先生の事実上のデビュー作『黒いトランク』誕生にまつわるエピソードが頭に浮かび、東京創元社でも書き下ろしをやってみようか、と考えたのが《鮎川哲也と十三の謎》のシリーズであり、それが鮎川哲也賞誕生へと結びついていく。それと同時に作家・北村薫が誕生したのである。
 第1回鮎川哲也賞の贈呈式の夜、ということは平成2(1990)年秋のこと。何人かの若手作家が拙宅に集まり、徹夜でミステリ談義をしたことがあった。車座になってお茶を飲みながら延々話していたのだが、一段落したところで若竹さんが切り出したのが、50円玉20枚の謎、であった。書店のアルバイトをしていて、こういう奇妙な体験をしたことがある、と。解決のないリドルストーリーだが、若竹さんが実際に体験したというところに全員が強く惹かれ、解決編を考えてみよう、ということになった。こうして翌年の『鮎川哲也と十三の謎'91』誌上に法月綸太郎、依井貴裕両氏による解決編が載り、同時にこの問題の答えを公募しようということになった。その結果生まれたのが、『競作 五十円玉二十枚の謎』である。
 その徹夜に付き合っていた北村さんは、なにやら思いついたことがあったらしく、この競作集には加わらなかったが、ある時若竹さんを捕まえて、「若竹さん、あなたは大変危険な目に遭うところだったんですよ」などと謎めいた言葉をかけていたものである。それが、本書の最後で語られる真相だった、というわけだ。
 実はこの部分についても、僕は語る資格があるのだが、それはネタばらしになるので、控えることにしたい。

 独特のクイーン論を小説の形で展開しながら、神さまと仰ぐ作家の作中人物を自在に扱うというのは、北村さんにとってさぞや心地よい作業だったのではないだろうか。のびのびと筆を走らせる作者の姿が髣髴として、読む者の心をも温かくする、そんな会心作であると思う。

(2005年6月1日)