P・K・ディック『ドクター・ブラッドマネー』
解説[全文]渡辺英樹

P・K・ディック『ドクター・ブラッドマネー――博士の血の贖い』
佐藤龍雄訳/創元SF文庫

ドクターブラッドマネー  本書『ドクター・ブラッドマネー――博士の血の贖い――』はフィリップ・K・ディックが1963年に執筆し、1965年にエース・ブックスよりペーパーバックオリジナルとして刊行された長編である。邦訳は、1987年にサンリオSF文庫から刊行されたが、直後にサンリオが出版事業から撤退して絶版となり、長らく入手困難であった。今回は新訳による待望の再刊である。
 執筆順としては、傑作『火星のタイムスリップ』(1962年執筆、1964年刊/ハヤカワ文庫SF)の直後に当たる。ディック全盛期に当たる60年代中期の作品ということもあり、強烈なサスペンスや現実崩壊感覚など、いつものディックらしさを求めて本書を手にとった方もいるだろう。そうした方は、読み始めてから、おや、いつものディックとはちょっと違うぞと思われるかもしれない。ディックが残した多数の長編の中でも、核戦争後のアメリカ西海岸を舞台にした本書は、様々な意味でユニークな作品となっている。
 フレドリック・ジェイムソンは本書を詳細に論じた評論「アフター・ハルマゲドン」(1975年、大橋洋一・青山恵子訳、《ユリイカ》87年11月号所収)の中で、「明らかに矛盾し、互いに相手を排除しようとする主観的かつ客観的な二つの説明体系を一度に利用し制御しようとするところに、ディックの強みがある」と述べた上で、核戦争勃発という問題を扱うことによって「他の作品では可能だったことがこの作品にかぎって、ディックにはできなくなる」と、本書の特殊性を認めている。つまり、ディックが他の作品で描く悪夢のような世界は、ドラッグや分裂症、生死の未分化状態に起因する主観的な体験であり、それが集団レベルの客観的現実を侵食してくるところにこそ通常のディック作品の面白さがあるのだが、核戦争勃発によるホロコーストの世界は、そもそも誰にも疑い得ない集団レベルの体験として起きるもので、個人的な悪夢による現実の侵蝕は存在する余地がないということだ。確かに、本書には多数の登場人物が存在するが、そのいずれも、他の作品に見られるような現実侵犯的な悪夢を体験することはない。せいぜい、地下室に閉じ込められてネズミを生のまま食らうとか、地球を回り続ける人工衛星の中で病気にかかるとか、極めて現実的な悪夢を経験する程度。唯一の例外として、登場人物が媒介して死者の声を再現する場面があるが、そこでも死者たちは彼らの世界にとどまったままなのである。しかし、だからと言って、決して本書がつまらないわけではない。むしろ、派手ではない分、いぶし銀のような他の作品にはない渋い魅力を放っている。ネビュラ賞の候補となるなど評論家受けも良く、ディック自身も「この本は印象的だよ。まちがいなくユニークな本だ。SFとしてのみならず、小説として、ユニークなものだ」と高く評価している(大森望訳「ディック、自作を語る」、創元SF文庫『去年を待ちながら』所収)。本書のディック作品としてのユニークさを挙げておくと、第一に、冷戦の影響を多分に受け核戦争を真正面から扱った作品であること、第二に、核戦争後の世界がリアルに、そして巧みに描き出されていること、第三に、若き日のディックに影響を与えたと思われる小説・音楽のタイトルが多数挙げられ、近未来小説であるにもかかわらずノスタルジックな雰囲気をかもし出していること、この三つになるだろうか。以下順に例証していきたい。

 本書には当初 In Earth's Diurnal Course(日ごとにめぐる大地の中で)または A Terran Odyssey (地上の冒険行)という仮題がつけられていた。特に前者は、英国が誇る自然詩人ワーズワースが少女ルーシーの死を詠じた詩 Lucy Poems(1799年)の一節から取られたとおぼしき詩情あふれる題名であり、これを映画『博士の異常な愛情/または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』Dr.Strangelove, or How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb(1964年、スタンリー・キューブリック監督)のタイトルをもじった、いかにも廉価本にふさわしい安っぽいタイトルに変更してしまったのは、当時エース・ブックスの編集を担当し、ディックの初期作品にも厳しい注文をつけたり改稿を命じたりしていたことで知られるドナルド・A・ウォルハイムであるようだ。何かと非難されることが多いウォルハイムであるが、冷戦時の緊張がまだ色濃く残っていた時期の刊行であることを考慮すれば、核戦争を扱った本書にこのようなタイトルをつけたくなった気持ちも、まあ、わからないでもない。ディック自身も、再刊時に付した本書の序文(1979年執筆/ジャストシステム『フィリップ・K・ディックのすべて』1997年、所収)の中で、自分は1964年までに核戦争が起きて世界が滅亡するという強迫観念にかられ、それを周囲にも公言していたと語っている。ディックの神経過敏さを窺わせるエピソードであるが、それほど当時のアメリカ市民の核戦争勃発への恐怖が切実なものであったことの証左でもあろう。
 冷戦が激化し核実験が盛んに行われた50年代から60年代前半にかけての英米では、当然のごとく、SFジャンルの内外で、核戦争の危機や核戦争後の悲惨な世界を描いた作品が多数執筆された。『博士の異常な愛情』の原作となったピーター・ブライアント『破滅への二時間』(1958年)、ベストセラーとなりグレゴリー・ペック主演で映画化もされたネビル・シュート『渚にて』(1957年)、アルフレッド・コッペル『最終戦争の目撃者』(1960年)など、当時書かれた〈核戦争もの〉は枚挙に暇がない。50年代に短編を量産したディックも、この風潮と無縁ではいられず〈核戦争もの〉短編をいくつか執筆している。中でも、皆が家庭に核シェルターを常備しているアメリカの田舎町でシェルターを購入しない家庭の少年を主人公にした「フォスター、おまえ、死んでるところだぞ」(1955年/ハヤカワ文庫SF『パーキー・パットの日々』所収)、核戦争が勃発した未来に普通のアメリカ人家庭が家ごとタイムスリップしてしまう「たそがれの朝食」(1954年/ハヤカワ文庫SF『ペイチェック』所収)などは、初期の代表作と目される傑作短編だ。ただし、長編となると話は別になる。核戦争を物語の背景として扱う作品はあっても、真正面から核戦争勃発時の様子を描写し、その直後の世界を描いた作品は、本書しか見当たらない。本書は、ディック唯一の〈核戦争もの〉長編なのだ。

 本書の執筆当時ディックが暮らしていたアメリカ西海岸ポイント・レイズを舞台に、人々は退行したテクノロジーのもとで身を寄せ合い助け合いながら細々と生活している。リアルに描き出された核戦争後の人々の姿は、本書の読みどころの一つである。地球を周回し続ける衛星から届くデンジャーフィールドの放送が人々の唯一の娯楽となっているこの社会で、受信可能なラジオが町に一台しかないため、皆が集まって衛星放送に耳を傾ける場面など、まるで高度経済成長時代の日本における街頭テレビを連想させる不憫さだ。煙草は一本一本手巻きで作られるため、貴重品と化している。様々な物資、とりわけ戦前の工業製品が不足しており、眼鏡と薬が交換されるなど物々交換を基調とした前資本主義的な共同体が形成されている。一見温かで優しく過ごしやすそうな共同体であるが、集団に嫌われた人物を陪審団の名のもとに容易に処刑することができたり、放射能によるフリークス誕生への恐怖が常に存在するなど、否定的な側面もきっちりとディックは描き出している。この共同体は決して単純な理想郷ではないのである。共同体における経済的なリーダーが、スペシャル・デラックス・ゴールド・ラベルの煙草をつくるアンドリューだとすれば、政治的なリーダーは、幾人もの男を手玉にとる魔性の女ボニーといったところか。さらに、象徴的な「悪」を示す存在として、核実験により地球を汚染してしまったブルートゲルト博士と、サリドマイド薬害により両手両足を失ったかわりに念動力を身につけた少年ホッピーがいる。罪悪感に苦しむブルートゲルトと対照的に、ホッピーは、戦争後に脳と車椅子を直接接続した電子式車椅子を開発して自在に動けるようになりいっそうパワーを増している。一方で「善」を象徴しているのが、地上の人々の生活を天から俯瞰するように眺めるデンジャーフィールドであり、ボニーの娘エディーの体内に宿る双生児の寄生体ビルである。ビルは一種のテレパシーでエディーとだけ会話を交わすことができ、死者と対話する力さえ持っている。かくして、ブルートゲルト=ホッピー対デンジャーフィールド=ビルとの四つ巴の戦いが物語の後半で展開される。果たして勝者は誰なのか。
 意外なドンデン返しも含め、多数の登場人物を巧みに操るディックの手つきは最後まで確かである。ただ、本書の3章から4章の間に7年が経過していることが了解しにくく、読み進めながらあれあれどうなってるんだろうと頁を繰り直した方もいるのではないだろうか。5章・6章が再び1981年に戻り、7章からは一貫して1988年の出来事が描かれている。ディックが長編において、7年もの時間経過及びカットバック手法を使うのは珍しいことと言ってよい。結果としては、経過時間を置くことによって、ボニーの子らが成長して「悪」としての存在感を徐々に増していくホッピーと戦う準備が調い、ポイント・レイズで暮らす人々が落ち着いた日常生活を営むに至っているので、この手法は功を奏していると言えよう。浪費癖のある妻のために生活費を稼がねばならず、凄まじいペースで執筆されたこの時期の長編(わずか2年間で10編もの長編が書かれている)にはプロットが破綻していく作品も多いのだが、本書はその中では安心して読むことができる作品だ。個人的には、ディックのSF長編の中でなら5本の指に入れてもよい作品だと思う。

 ディックは作品中に実際の小説・音楽のタイトルをさりげなく出してみせることが多いが、その数が実に多いという点にも本書のユニークさがある。デンジャーフィールドという一種のDJを設定したためだろう。作中で名が挙げられた小説・音楽は、そのままディック自身の趣味を反映していると考えてよさそうだ。たとえば、本書にはデンジャーフィールドが朗読する小説として、モームの『人間の絆』(1915年)が登場する。これは、片足が不自由な少年フィリップが芸術家を夢見てパリへ行き、悪女ミルドレッドに翻弄され挫折を重ねながらも人間的に成長していく過程を描いた長大な小説であり、毎日聴衆の興味を引かねばならない「連続テレビ小説」ならぬ「連続衛星小説」には最適の作品と言える。ディックが自分と同名の主人公に何らかの共感を寄せていたことも十分考えられる。どうしようもなく悪女に惹かれていく主人公フィリップの姿は、そのまま結婚・離婚を繰り返したディックの人生と重ね合わせることができるようで、実に興味深い。また、『人間の絆』の前に朗読されていたというのが、パスカルの『プロヴァンシアル』(1657年)である。これは、17世紀半ばにローマ教皇から異端の宣告を受けたジャンセニストと多数派ジェズイットとの争いに巻き込まれたパスカルが、理性的な立場から前者を擁護した明晰かつ力強い書簡集。窮境に負けず理性をもって生きよというディックからのメッセージが込められているかのようだ。
 音楽では、プッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』第1幕のアリア〈冷たい手を〉などのクラシック系からポピュラー・ミュージックまで、デンジャーフィールドは幅広くリクエストに応えている。この辺りは、実際にラジオ店やレコード店で働いた経験を持ち、様々なジャンルの音楽に造詣の深いディックの面目躍如といったところ。筆者の守備範囲であるポピュラー系を中心に、いくつか気がついたことをメモしておこう。
・〈ワルツィング・マチルダ〉(146頁)……言うまでもなくオーストラリア国歌だが、映画『渚にて』(1959年、スタンリー・クレイマー監督)のテーマ曲としても有名。執筆前にディックが映画を見ていた可能性は多分にある。
・〈ウッドペッカー・ソング〉(同頁)……ユニバーサル製作のアニメ『ウッディー・ウッドペッカー』(1940年−)より。『ルーニー・テューンズ』(1938年−)などのアニメに対するディックの偏愛ぶりを知る読者なら思わずにやりとするのでは。
・〈グッド・ロッキン・トゥナイト〉(193頁)……作品冒頭でアメリカの国民的歌手バディー・グレコ(80近くの今でも健在)の新曲を口ずさむ音楽好きなTV販売員スチュアートがデンジャーフィールドにリクエストするこの曲は、元ボクサーの黒人シンガー、ロイ・ブラウンの代表作だ。スチュアートが古き良き時代をなつかしむ場面にふさわしいノスタルジックな佳曲である。1947年のヒット曲だから、その当時19歳だったディックはバークリーのシャタック通りにあったラジオ店で働きながら、この曲を聴いていたのかもしれない。
・〈素敵なあなた〉(301頁)……地上から攻撃を受けたデンジャーフィールドが、何を思ったのか反撃として流す曲。3人姉妹のコーラス・グループ、アンドリュース・シスターズによる1938年の大ヒット曲で、これもノスタルジックなけだるい雰囲気に満ちている。確かに、突然こんな曲が流れてきたら、相手の殺意をそぎ脱力させてしまうこと間違いなしだ。
・〈ペニーの農園で〉(365頁)……ホッピーが衛星放送システムを一時的に乗っ取った際にかけた曲。農場での搾取を歌ったトラディショナル・ソングで、ボブ・ディラン〈マギーズ・ファーム〉の原曲としても知られている。つい最近もナタリー・マーチャント(元10,000マニアックス)がカヴァーするなど様々なアーティストに取り上げられているが、ここでは米フォーク界の大御所ピート・シーガーが歌ったヴァージョン(録音はおそらく40年代)で。
 以上、総じて30年代から40年代にかけて、若き日のディックが愛読愛聴した作品が取り上げられている。こうした自伝的要素が見られる点も含めて、本書に登場する人々の生活描写には『メアリと巨人』(1954年頃執筆、1987年刊/筑摩書房)や『小さな場所で大騒ぎ』(1957年執筆、1985年刊/晶文社)など、ディックが50年代に書き溜めていた主流小説に近い味わいがある。とりわけ『メアリと巨人』に登場するレコード店主のジョゼフは、本書のスチュアートとデンジャーフィールドを足したような立場のキャラクターなので、比較して読むのも一興だろう。他にも、話す能力を持ったミュータント犬や移動する小動物捕獲機といったユーモラスな道具立て、ホッピーと『怒りの神』(1976年、ゼラズニイと共作/サンリオSF文庫)に登場する手足のない画家ティボールとの比較など、本書に見るべき点語るべき点は多いが、残念ながら紙数が尽きた。善悪を象徴する主要登場人物四名が物語において果たす機能については、フレドリック・ジェイムスンが先述の論文の中でA・J・グレマスの〈意味の四角形〉という概念を援用し詳細に論じているので、興味のある向きはそちらを参照されたい。
 本書の刊行により、サンリオSF文庫が刊行したディック作品21冊の中で再刊されていない作品は、『時は乱れて』『銀河の壺直し』『最後から二番目の真実』『怒りの神』『シミュラクラ』の5冊のみとなった。未訳作品もSF4冊(Dr. Futurity, Vulcan's Hammer, The Crack in Space, The Ganymede Takeover)、主流小説5冊が残されている。一刻も早い翻訳および再刊を望む次第である。

(2004年12月10日)

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