ジェイムズ・P・ホーガン『揺籃(ようらん)の星』
解説[全文]金子隆一

ジェイムズ・P・ホーガン『揺籃の星』
内田昌之訳/創元SF文庫
揺籃の星 上  もしもあなたが、新しい小説を手にとった時、まず解説から読み始める習慣をお持ちであるならば、何はともあれ以下の事実をあなたは知っておくべきだろう。そして、最初に腹をくくって、この本と向き合っていただきたい。
 本書は、「あの」イマニュエル・ヴェリコフスキーの『衝突する宇宙』を下敷きにした小説である。いや、下敷きにした、という表現は生易しすぎる。より正確に言えば、本書はヴェリコフスキーの主張がすべて正しかったという前提に立ち、あらゆる事例を動員してそれに裏付けを与え、まさにヴェリコフスキーが描いた通りの大天変地異が人類の運命を翻弄して行くさまを、科学的必然であるかのごとくに描ききった小説である。
 ついにホーガンがヴェリコフスキーに手をつけたか、と、感慨にふける読者もおられる事だろう。ホーガンはそのデビュー作『星を継ぐもの』(創元SF文庫・1980年)において、すでに太陽系規模のカタストロフィを描いており、しかも、そのテーマに対する科学的処理の仕方は、小型ヴェリコフスキーと呼んでさしつかえないものだった。つまり、物語を首尾一貫させるためなら、大枠の部分で、天体物理学の常識をことごとく捨て去ることも辞さないというスタンスを彼は選択したのである。ただ、『星を継ぐもの』においては、月面で発見された、推定5万年前の宇宙服を着た人間の死体が何者で、どこから来たのかという、基本的に誰が見てもフィクションとわかる設定が、その後の展開を引っ張る動機であったのに対し、ヴェリコフスキーの場合は、キリスト教原理主義という非常に重く、やっかいなイデオロギーがその背後にあった、という点が大きく異なっている。
 では、そもそもヴェリコフスキーとはどういう人物で、その著書『衝突する宇宙』には何が書いてあるのか。それをかんたんにご説明しておこう。
 イマニュエル・ヴェリコフスキー(1895〜1979年)はロシアに生まれ、その後世界各地を転々としながらイギリスで自然科学一般、ロシアで法律、歴史、医学、ドイツで生物学、さらにウイーンとチューリッヒではフロイト学派の精神分析学をも修めた(とされている)。1938年、アメリカの市民権を獲得し、精神分析医を開業。患者の治療にあたるかたわら独自の宇宙哲学(?)に関する思索を深め、1950年、それを最初の著作『衝突する宇宙』にまとめて発表、一大センセーションを巻き起こす。
 本書によれば、紀元前1500年頃、木星から巨大な彗星、ヴェリコフスキー呼ぶところの「テュフォン」が飛び出した。この天体は、膨大な量の炭化水素を含む長い尾を引きながら太陽方面へ飛来し、太陽をかすめる長楕円軌道に乗った。そして、テュフォンが最初に地球に接近した時、地球はその濃密な尾の中に突っ込み、何日も暗闇が続いた。そこから地上に降り注ぐ炭化水素は原油となり、地球の石油はすべてこの時生まれた。テュフォンのふりまく大量の隕石は無数に地球に衝突し、その粉塵で川は血の色に染まった。テュフォンの重力の影響で地球の自転速度は遅くなり、大気は擾乱されて猛烈な嵐が世界中に吹き荒れた。この時の記憶が、世界のさまざまな民族に共通して伝わる大洪水や暗黒、さらには天空における神々の戦いなどの神話・伝説の起源となったのである。例えば、ギリシア神話において、女神アテナは大神ゼウスの額から生まれたとされているが、これは、木星からテュフォンが飛び出す様子を目撃した古代ギリシアの人々がその事実をそのまま伝えたものであり、ギリシアではアテナは金星と同一視されているとヴェリコフスキーは述べている(言うまでもなく、『揺籃の星』のアテナはこの記述に由来する)。
 とりわけ、彼がこだわるのは、旧約聖書の「出エジプト記」に出てくるさまざまなエピソードの解釈である。モーゼが紅海をまっ二つに割ってイスラエルの民をエジプトから脱出させたのも、テュフォンの接近による異常な潮汐効果の結果に他ならない。この時、多くの害虫が現れてエジプトを苦しめたと伝えられるが、これはテュフォンからやってきたもので、ハエはこの時初めて地球に現れた。また、イスラエル人たちが荒野で飢えに苦しんだ時、天から降ってきた「マナ」と呼ばれる食物は、テュフォンがもたらした炭化水素であった。さらに、そのおよそ50年後、テュフォンが再び地球に接近した時には、地球の自転は数日間完全に止まってしまった。この時、モーゼの後を継いでイスラエルの指導者となっていたヨシュアは、戦いの最中に太陽に向かって止まれと呼びかけ、まさにその瞬間地球は静止した。
 その後も、テュフォンはたびたび地球に接近しながら太陽系の秩序をかき乱し続け、最後に地球より内側の公転軌道におさまった。こうして誕生したのが今日の金星である。
揺籃の星 下
 興味がおありの方は、ぜひ一度オリジナル版を読んでみていただきたい。その全訳『衝突する宇宙』(新装版・1994年)は、鈴木敬信訳で法政大学出版局から刊行されている。2004年6月の時点では品切れ中のようだが、この分野では非常に有名な古典であるから、いずれまた版を重ねるだろうし、古書市場でもかんたんに入手できる。

 しかし、とは言うものの、あなたが健全なSF的センスを持った、基礎体力のあるSF読みならば、まずこの種の本に食指が動くということはあるまい。この本は、科学書としての体裁をとりつくろってはいるものの、これ以上はないほどあからさまなキリスト教原理主義のプロバガンダであり、まず最初に聖書の記述はすべて事実をそのまま記したものであるという著者の確固たる信念が存在する。ヴェリコフスキーがありとあらゆる場所からかき集めてくるその例証と称するものは、すべてその中核にある宗教イデオロギーを修飾するための道具にすぎず、その信念を読者に伝えるためなら、多少の(ないし大幅な)事実の誇張や改竄、物理法則の歪曲や無視も辞さない。それはSFの何たるかを体で理解しているSF読みのもっとも忌み嫌う精神の有り様である。
 もちろん、科学のメイン・ストリームの側に属する(そして、その多くが同時にSFサイドにも属する)論客たちは、早くからヴェリコフスキーのでたらめぶりを徹底的に糾弾し続けてきた。われわれが日本語で読むことのできるものだけでも、アイザック・アシモフ(『わが惑星、そは汝のもの』ハヤカワ文庫NF・1979年)、マーチン・ガードナー(『奇妙な論理 だまされやすさの研究』現代教養文庫・1989年、現在はハヤカワ文庫NF)、テレンス・ハインズ(『ハインズ博士「超科学」をきる』化学同人・1995年)、それにわが日本の誇る「と学会」(『トンデモ超常現象99の真相』洋泉社・1997年)など、さらにはネット上の数多くのトンデモ科学批判サイトでの発言があげられる。前掲の訳書の中でも、訳者である旧東京天文台長の鈴木敬信氏が、正当天文学の立場からその内容を批判している。ヴェリコフスキー批判という一個のジャンルが確立されていると言っていい。
 それらの中でも、とりわけ徹底しているのが、ご存じカール・セーガンである。その著書『サイエンス・アドベンチャー』(新潮選書・1986年)において、セーガンが行ったヴェリコフスキー批判は、それ自体がすでにこの分野の古典であり、ヴェリコフスキーに対する現代科学からの最終回答となっている。
 セーガンが指摘したヴェリコフスキー理論の誤りは枚挙にいとまがないが、その中でもとりわけ重要なものは以下の数箇条だろう。
 まず、金星のように巨大な天体が、どうやって木星から分離できたのかがまったく説明されていない。木星という、太陽系最大の惑星(赤道重力2.37g、脱出速度59.5km/s)から、金星ほどの質量(約4.87×10の24乗kg)が飛び出すためには、およそ10の41乗エルグのエネルギーが必要であり、これは太陽出力のほぼ1年分に相当する。これだけのエネルギーがいっぺんに解放されたら、木星はこっぱみじんになる(というより蒸発する)だろう。
 長楕円軌道に乗った金星が地球に接近したところで、それが地球の自転周期に影響するほど大きな潮汐力を、長時間にわたって及ぼし続けることはとうてい不可能である。相互に影響を及ぼし合う時間などせいぜい10分程度だろう。もちろん、いったん自転の止まった地球が、金星の通過後再び動きだすことなどあり得ない。また、長楕円軌道をとる天体がわずか数千年で現在の円軌道に移ることも不可能。
 木星のちぎれた一部が金星だというなら、両者の成分はまったく同じであるべきだが、木星は水素とヘリウムを主成分とする、基本的に太陽と同じタイプの天体である(平均比重1.33)。一方金星は、地球と同様鉄とニッケルの核を持つ固体の惑星(平均比重5.24。地球は5.52)で、その大気は二酸化炭素からなる。
 これだけを読んでも、ヴェリコフスキーの科学的素養がいかに貧弱なものであったか(したがって、その経歴もかなり怪しい)ということがよくわかる。
 しかし、世の中はよくしたもので、セーガンのような有名科学者が批判を強めれば強めるほど、それは現代科学の信徒がうろたえ、権威をふりかざして真理を圧殺しようとしているのであると考え、ますますヴェリコフスキーやその亜流に対する信仰を深めて行く一群の人々が、いつの時代も絶えることなく存在する。と、言うよりむしろ、そういうものをもてはやす人間の方が、世の中では多数派を占めているという厳然たる事実がある。ヴェリコフスキー以降も、長楕円軌道をとる氷の塊が地球をかすめてノアの大洪水を起こしたという『灼熱の氷惑星』(高橋実、1975年)、太陽系の全惑星が一直線に並ぶ時、その潮汐力で地球に大異変が起こるという『惑星直列』(ジョン・グリビン他、1975年)、巨大彗星が地球をかすめた時、その引力で地球がひっくり返ったという『地球がひっくりかえる!』(ピーター・ワーロー、1982年)、近くはグラハム・ハンコックの『神々の指紋』や飛鳥昭雄の一連の著作に至るまで、程度の差はあれヴェリコフスキーとまったく同じ精神の土壌に育ったトンデモ・カタストロフィ本は絶え間なく書きつがれ、一定の読者を獲得し、その多くが、カール・セーガンの本をはるかにしのぐベストセラーとなってきた。
 そして、見方によっては、この小説こそ、後者の流れの最後に現れた、もっとも手ごわいヴェリコフスキー直系のアジテーターとも言えるのである。

 さて。
 いかがなものだろう。どういうスタンスでこの小説と向き合うべきか、あなたの腹は決まっただろうか。
 もちろん、この作品はあくまでも、どこまでも、小説として書かれたものである。小説である以上、登場人物たちの行動や発言がそのまま作者の思想を反映しているべき必然性はない。しかも、これは重要な点だが、この作品は全3部作の第1部にすぎず、第3部は2004年現在では、いまだ書かれてすらいないという。あるいは、全編が完結した時、第1部からは予想もつかなかったその全貌が明らかになっているかも知れない。
 ただ、これだけは確実に言えるが、その段階に至るはるか以前に、きっちりと心構えのできていない(あるいは、自分のポリシーを曲げたくない)読者は、次々に脱落して行くだろう。ある種の読者には、本書を読むことが苦痛ですらあるに違いない。
 一方、中には、本書において初めてホーガンの作品に触れるという読者の方、さらにはSFに初めて遭遇するという方もおられるに違いない。それらの方は、果して本書からどのような印象を受けられることだろうか。
 ホーガンの作品は、常に未来に向かって開いており、科学技術と人間の理想的な融合をめざす、一種のユートピア思想のアトモスフェアを濃厚に漂よわせている。本書においても、クロニア人と呼ばれる人々が土星系に築き上げたのは、まさにホーガン自身が夢見る(そして、今や現代SFの中ではめったにおめにかかることのない)科学の楽園である。彼らは、視野狭窄に陥り、内へ内へと引きこもって行く地球人類を尻目に、理想の宇宙船を完成させて太陽系内を自由にかけめぐり、今や種としても(わずか一世代の内に)地球人類とは異なったものへと変貌を遂げようとしている。その彼らが、いかなる権威主義にもとらわれない自由な視点から、ヴェリコフスキーの主張を正当に評価し、メイン・ストリーム側の科学者たちの執拗な妨害にもめげず、一握りの目覚めた地球人とともに、破滅に向かう世界を救おうとする。ホーガンを読むと、理性と科学への信頼がとめどなく湧き上がってくるような感覚に多くの人がとらわれる。小説の巧拙とは別の次元で、世に言う「センス・オブ・ワンダー」のツボを一気に突いてくる不思議な魅力を、ホーガンの小説は確かに備えている。これだけは否定のしようがない。そして、いかにも適切に用いたかのような科学用語の数々がそれに拍車をかける。
 本書もまた、ホーガンの多くの作品の例にもれず、無数の耳なれない科学用語、科学的概念がちりばめられている。科学用語の氾濫に免疫を持たない読者の中には、必ず、ホーガンのナイーブなるが故に力強いそのアジテーションに心酔し、しだいに、過去の地球と太陽系が直面したという仮想のカタストロフィの歴史を事実として受け入れ、ついには、それを認めようとしない主流派科学への不信と憎悪を抱き始める人もいるだろう。ひょっとしたら、近い将来、本書はSFプロパー以外の新しい読者層をひきつけ、「科学小説の世界的巨匠、J・P・ホーガン氏もついにヴェリコフスキーの正しさを全面的に認めた!」などとその手の雑誌に書かれるようになるのかも知れない。
 しかし、あえてご忠告しておきたい。それは、本書へのもっとも危険なはまり方だ。
 ホーガンを真に楽しむためには、もっとずっと覚めた(ひねた?)、とりあえず何事もうのみにする前に立ち止まって考えるという姿勢が絶対不可欠なのである。
 科学用語を多用するからといって、ホーガンが必ずしも科学的に正しい事だけを述べているとはかぎらない。彼も、ヴェリコフスキー理論の苦しさは重々承知の上でこの作品を書きはじめたのは明らかである。何よりも、ヴェリコフスキー理論の最大の問題点、いかにして金星が木星から飛びだし得たかという点について、ホーガンは具体的に語ることを避けている。彼が少しでも本気であったなら、この部分にもっとも力を入れ、強引にそれを可能とするような架空理論を構築して見せたに違いない。それを放棄したという事自体がすでに彼の姿勢表明であるともとれる。しかし、基本設定を「ウソですよ」のサインとともに提示したとしても、それをもっともらしく見せるための手続きの部分にぬかりがあったのでは、話はどんどんリアリティを失って行く。物語の虚構性が高くなればなるほど細かいネタでは真実を語らなければならない、というのは小説の鉄則である。その点において、少なくとも本書は決して手厚いとは言いかねる。
 ここで、本当に成熟した大人の読者なら、にやにやしつつすべてを受け入れ、一人ツッコミを入れた回数を自分で数えるという余裕さえ持つことができるだろう。先ほどから言っている心構えとは、要するにそのような気の持ちようのことだ。だが、残念ながら、これを書いている筆者自身はまだまだ青かった。ゆったり、鷹揚にかまえようと自分自身に言い聞かせつつも、時々表情がひきつるのが自分でもわかった。上巻だけで付箋を貼った箇所は四十箇所にのぼった。あれほど騒がれたシューメーカー=レビー第九彗星をもう忘れたのか、とか、一つでいいから実例をあげてみろよ、とか、今どきそんな恐竜の復元をする奴ァもういないよ、とか、ウルトラサウルスなんてとっくに消滅してるよ、とか、カニがあぶくを吹くような筆者のつぶやきを書き連ねていけば、それこそ何十枚でも原稿が書けることだろうが、それは読者諸兄姉へのお楽しみとして置いておこう。
 それに、客観的に見て、木星軌道付近に遠日点を持つ短周期彗星に関する記述など、いくつかの指摘には、思わず言葉に詰まるものがあったことも否定しない。科学とトンデモの間で危険な綱渡りを演じるスリルに、いつの間にか自分もからめとられているこの新鮮な感覚は、確かに他のどんなSFにおいてもちょっと味わえるものではない。そのような経験をさせてくれただけでも、筆者にとってこの本は十分に価値があった。
 結論である。本書は、さまざまな点において問題をはらみつつも、なおさまざまな点において「面白い」。ホーガンの美点も欠点も、そのすべてがこれまでのどの作品より濃密に凝縮されている。J・P・ホーガンという、現代SFの中の特異な一現象について何事かを理解したいと思うなら、これは最高の1冊となるだろう。と、同時に、SF読みとしてのあなたの度量を測る試金石ともなるだろう。
(2004年7月10日)