ダフネ・デュ・モーリア『レイチェル』
訳者あとがき[全文]務台夏子

ダフネ・デュ・モーリア『レイチェル』
務台夏子訳/創元推理文庫
レイチェル 「彼女はわたしにキスした。そして、わたしは思った――望郷の念でも、遺伝的な病でも、熱病でもない。アンブローズはこのせいで死んだのだ」
 レイチェルは死を招く女、ファム・ファタールである。これは、その女にのめりこみ、破滅へと向かうふたりの男の物語だ。
 時は19世紀中頃、舞台はイングランド、コーンウォール地方。海鳥の舞う灰色の空、岩壁に打ち寄せる荒い波、吹きすさぶ風。そんな荒涼たる風景が目に浮かぶようだ。作者デュ・モーリアは、この地方を好んで小説の舞台に使った。確かに、陰鬱で荒々しいその景色は、登場人物たちの疑惑や恐れを描く背景としてふさわしく、この作家の特色であるサスペンスフルなムードを盛り上げてくれる。
 さて、主人公の青年フィリップは、このコーンウォールの一領主である。自らの領地をこよなく愛し、社交を好まず、自由と孤独のうちに暮らし、ただ慣れ親しんだ狭い世界で平穏な生活を送ることだけを望んでいる。幾分、偏屈なのかもしれない。女嫌いの従兄に育てられ、男だけで過ごすのが何より気楽と考え、すでに一生独身を通すことを決めてさえいる。そんな彼の前に、異国の女レイチェルが現れる。従兄アンブローズの妻。一度も会ったことのないイタリア女性。父であり兄であり友人でもある男に死をもたらした女。フィリップは復讐を誓い、敵意の鎧をまとって彼女を迎える。そしてその瞬間から、物語は、冒頭に暗示される悲劇的な結末へと食い止めようもなく向かっていく。

 デュ・モーリアは、1907年ロンドン生まれ。芸術一家の出であり、ごく若いころから創作活動に励み、1936年の『ジャマイカ・イン』、1938年の『レベッカ』で、作家としての地位を不動のものとした。これらはいずれも、デュ・モーリアの多くの作品の特徴である異様な切迫感、精緻な心理描写が際立つ傑作であり、発表されるとすぐに映画化が決まるなど、大変な評判となった。そして1951年、この2作と同じ傾向の作品としては実に13年ぶりに発表されたのが、本作『レイチェル』である。ことに『レベッカ』と『レイチェル』とは、時代背景こそちがうものの、双璧の姉妹編と言え、比較して読んでいただければ、執拗に追いかけてくる過去、愛する者への疑惑、死者をはさんだ三角関係など、さまざまな点で、あたかも計算されたかのようにきれいに対称を成しているのに気づかれることと思う。
 いずれにせよ、発表当時、この作品は大いに歓迎されたらしい。デュ・モーリアの小説にスリルとサスペンスとロマンスを求めていたファンが、この種の作品を待ちかねていたさまがうかがえるようである。同じ系統のものを量産していれば、あるいはもっと高い人気が得られたのかもしれない。ところがデュ・モーリアは、ひとつのジャンルには収まりきらない、進取の精神に富んだ作家だったようだ。その著作には、戯曲やノンフィクションもあり、小説もまた、歴史もの、幻想小説、怪奇小説、SFめいた作品等、多岐に渡っている。なかには、破綻しているように思える作品もあるのだが、その分野の広さには旺盛なチャレンジ精神、並々ならぬ創作意欲が感じられる。デュ・モーリアは決してサスペンスだけの作家ではないのである。
 ところで、そうした多種多様な作品のなかで、デュ・モーリアの筆の力がもっとも光っているのが、短編小説に多く見られる風刺と皮肉に満ちた作品だと思う。たとえば、社交界の人気者であり、美しい説教で人々を魅了する牧師の俗物ぶりとご都合主義を描く "Angels and Archangels"、熱いカップルが週末を海辺のリゾートで過ごし、二日後には口もきかない仲となって帰っていく "Week-End"、妻を愛さなかった男の罪悪感と自己弁護と妄想を描く「林檎の木」"The Apple Tree" などは出色。どれも、人間の身勝手さ、俗っぽさ、偽善・独善が、辛辣に、シニカルに、ときにユーモアを交えて描かれていて、実に痛快である。デュ・モーリアの観察眼は常に鋭く、その筆致は情け容赦がない。百年近くも前に生まれたデュ・モーリアの作品がいまなお古びて感じられないのは、この作家が見て取り、描いてみせたものが、時代を超えても変わらない普遍的な人間の姿だからなのだろう。

 こうした人間性に対する洞察力は、本書『レイチェル』にも生きている。敵意をもってレイチェルを迎えたフィリップが、たった2日で警戒を解き、その魅力に屈してしまうのはなぜなのか。ありえないことのように思えるけれども、ふたりの会話、フィリップの心の動きをたどっていけば、そこには少しの不自然さもない。反対に、それがいかに必然的なことであるかがわかるのだ。こういう若者がこういう女性と出会ったら何が起こるのか――化学反応のような当然の帰結を、デュ・モーリアは冷徹な眼で見つめ、愛に溺れていく主人公の狂気を仮借なく描いていく。他の道はありえず、だからこそ、この破滅へのプロセスは、固唾を呑んで見守らずにはいられない。
 こうして、若者がじわりじわりと深みにはまっていく10カ月が静かに描かれた後に、物語は急転直下、クライマックスを迎え、衝撃のエンディングへと一気になだれこむ。この幕切れの鮮やかさ、そして、読者を唐突に置き去りにしてしまうこの非情さ。やはりデュ・モーリアは、一筋縄ではいかない作家なのだ。

(2004年6月10日)

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