心の奥の解き明かされない場所
デイヴィッド・アーモンド『秘密の心臓』
解説[抄録]伊藤 遊

デイヴィッド・アーモンド『秘密の心臓』
山田順子訳/単行本
秘密の心臓  デイヴィッド・アーモンドの初めての邦訳である『肩胛骨は翼のなごり』を読んだときの驚きは、まだしっかりと記憶に残っている。ファンタジーとはやや異なる手法で、しかしそうでなければ出会えるはずのない不思議な生きものが、たしかな存在感をもって描かれていた。倒壊寸前の小屋の暗がりに横たわる、背中に翼を持つ「なにか」。残飯とフクロウが運ぶ餌によって命をつないでいる薄汚れた彼を、「天使」と名付けたとたんに失ってしまいそうな不安にかられ、胸の高鳴りを押さえ込むようにして読み終わったものだ。ありえないものを目にしたからといって騒ぎ立ててはいけないと、作品に満ちた静謐な空気が、唇の前に指を一本立てているような気がした。

 続く『闇の底のシルキー』にも、やはりこの世ならぬ生きものが登場する。坑道の闇の中で絹のような光沢を放つ、精霊「シルキー」だ。追えば逃げるくせに、こちらが気づかなければいたずらを仕掛けてくる、さびしがりやの愛すべき精霊。落盤事故で死んだ少年坑夫の霊と見るには、怨念も邪気も感じられないが、うっかり深追いしようものなら、二度と出られない坑道の奥へと迷いこむことになる。シルキーは危険な誘惑でもあった。さらに『ヘヴンアイズ』(河出書房新社)では、手に水かきのある少女や、泥の中から掘り出された「聖者」が描かれ、読者の目を見張らせた。そして、本書『秘密の心臓』に登場する不思議な生きものは「虎」である。ただの虎ではない。ドラゴンやユニコーンなどと同様に、想像の世界でのみ存在している巨大な虎だ。虎は夢と現実のあいだを自由に行き来するが、誰の目にも映るわけではなく、見ることのできる「目」を持った人間にだけ見える。その虎が、主人公の少年ジョーのもとに現れるところからこの物語は始まるのだ。

 ……本書の主役であるジョーが住んでいるのは、再開発の話が立ち消えになった村、ヘルマスだ。ショッピングセンターが建設されなかった代わりに、ヒバリがさえずる野原や、黒豹がうろつく荒々しい自然が残っている。ジョーには夢想の世界に浸る癖があり、吃音のために自分をうまく表現できない弱みもあって、学校になじめず不登校を続けている。理解のある母からは愛されているが、父が誰だかわからないという悩みも抱えている。そんなある日、ジョーの夢の中に虎が現れる。同時に、ヘルマス村にうらぶれたサーカスがやってきた。ジョーは、空中ブランコ乗りの少女コリンナと出会い、サーカスの団員たちのもとへと導かれる……。

 このサーカスはどうやら現実のものであるらしいのだが、それにしては団員たちが謎めいている。人の心の中が見える盲目の老女。五歳の息子を火の輪くぐりで亡くしてから、ずっと息子を捜し続ける老人。サーカスのオーナーであり、「倒した者には千ポンドの賞金」を謳い文句に観客の挑戦を受ける「世界史上最強のレスラー」ハッケンシュミット。どこか別の世界で、ジョーといっしょにいた記憶があるというコリンナ。そして虎は、かつてこのサーカスの花形スターであったらしいのだ。

 本書のサーカスが必要としているのは、「豊かな想像力」だ。このサーカスは終わりを迎えようとしており、最後のテントを張る土地を探して、ヘルマスへやってきた。いや、サーカスはとっくにその命を終えていたのかもしれない。虎はいまや毛皮を残すのみで、代わりのスターは不在だ。にせもののユニコーンは客に見破られ、空中で姿が消えるほどの高度な技を見せるブランコ乗りもすでにいない。そして、虎の代わりに野獣のような男を演じようとした心優しきレスラー、ハッケンシュミットは、暴徒と化した観客たちの前で無力だった。サーカスはすでに夢の残骸になってしまっていた。そしてジョーは、虎を森へ連れ戻し、サーカスを完全に終わらせる役目を担わされる。サーカスの死は、それを観る人々の「夢見る力」の死でもあった。動物愛護を声高に訴えながらも、サーカスの団員たちに石と罵声を投げつける人々は、すでにその力を失ってしまっている。

 だが、物語の結末は明るい。「死」に極限まで近づき、そこから新たな命を生き始めるというのは、『肩胛骨は翼のなごり』『闇の底のシルキー』でも見られたモチーフだが、ジョーもまたひとつのものを終わらせることで、新しい一歩を踏み出すことができたのだ。死から再生するための原動力は「想像する力」であり「夢見る力」だ。人間の心の中には、まだ解き明かされない謎の部分があり、目を凝らせば、そこにしか棲めないものたちがうごめいている。このサーカスは、人の心の「秘密の場所」でしか生きられないものたちの最後の棲み処だったのかもしれない。

(いとう・ゆう/児童文学作家)

(2004年5月24日)

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