伯方雪日(はかたゆきひ)『誰もわたしを倒せない』
解説[部分]笹川吉晴

伯方雪日『誰もわたしを倒せない』
ミステリ・フロンティア(単行本)
誰もわたしを倒せない  この世の中には二種類の人間がいる。全てを〈プロレス〉によって考える人間と、そうでない人間である。
 実際、この世の中のほとんど全ての事象は、プロレスによって説明できる。ミステリもまた然り。それどころか、これほどプロレスとの間に親和性を見いだせるジャンルも稀ではなかろうか。
 そもそもの成り立ちからして、この二つのジャンルは兄弟のように似通っている。一説によれば、ギリシャ神話のオイディプス譚にまで遡ることが出来る、〈謎〉とその解明にまつわる物語は、文芸史の中でさまざまに形を変えながら近代に至り、ゴシック小説を経て、ポオとドイルによって〈論理〉を武器に謎を解き明かす物語形式へと整理される。一方、やはり古代ギリシャのオリンピック競技であったレスリングは、各国の軍隊や宮廷においてその命脈を保ちながら、ミステリ同様近代に入って競技としてのスタイルを確立したことから、見せる競技として興行が打たれるようになる。プロのレスリング=プロレスの誕生である。
 両者はそのどちらもが、読者/観客という消費者=近代市民社会が生んだ経済活動を前提として成り立っており、シンプルな筋立てが幾度となく反復増殖を重ね、探偵/レスラーというキャラクターと共に消費されていく。それは、かつては神聖な営みであり、やがて特権階級の娯楽となった文芸/スポーツの大衆化に他ならない。そして、両者が読者/観客論抜きには、決して成立しないジャンルであることの理由もここにある。
 そう考えてみれば、シンプルな物語とキャラクターの力強さによって築かれた最初の“黄金期”が共に十九世紀的世界と二十世紀的世界を断裂する二つの大戦間までである、という事実も何やら暗示的だ。さらには日本における両者の受容史もまた、相似形を描くのである。

(中略)

 これに対し、プロレス界は選手・団体/ファン共に、対立する二つの考え方がある。プロレスが“最強”を標榜してきた以上レスラーは総合格闘技に打って出、何としても勝たなければ」ならないのだという考え方。そして、プロレスと総合格闘技はまったく違う競技であって交わる必要はなく、むしろ幻想に傷をつけないためにもレスラーは総合にかかわるべきではない、とする考え方。そしてこの対立の根底には〈プロレス〉とは何か、〈強さ〉とは何か、という本質的な問いかけが横たわっているのである。
『誰もわたしを倒せない』もまた、この問いかけについて真っ向から向き合った物語だ。
 プロレス/格闘技の“聖地”後楽園ホールの傍で発見された刺殺体。プロレス/格闘技マニアの刑事、城島は、その身体つきがルチャ・リブレからヴァーリ・トゥードまで幅広くこなす天才マスクマン、カタナそっくりであることに気づく。カタナが参戦する新東京革命プロレスの事務所で、城島とその先輩の三瓶は、団体のエース寿仁とその付き人、犬飼優二と相対し、そのカリスマ性に強い印象を受けた。それが、彼らをさまざまな事件で結ぶ因縁の始まりだった――。

(2004年5月10日)
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