いよいよ卒業、《私》の社会人デビュー!
《円紫さんと私》シリーズ第5作『朝霧』

朝霧  北村薫氏のデビュー作『空飛ぶ馬』の衝撃を忘れられない方は少なくないことと思います。『朝霧』の文庫化にあたって解説を執筆してくださった齋藤愼爾氏もそのおひとりでしょう。かつて『秋の花』の書評で、「北村薫という作家がいるだけでミステリー界は救われると、私は何十年もの間忘れていた大声をあげたいのである。〈鮎川哲也と十三の謎〉シリーズの第六回配本『空飛ぶ馬』で北村薫がデビューした一九八九年三月十五日はミステリー史上に特筆されるべき日である。一読、凄い作家がいるものだと私は心底うならされた」等々、惜しみない賛辞を贈っておられました。

空飛ぶ馬『空飛ぶ馬』以来の名コンビ、語り手《私》と噺家の春桜亭円紫師匠が登場するシリーズは、今までに五冊出ています。おさらいすると、
『空飛ぶ馬』(織部の霊,砂糖合戦,胡桃の中の鳥,赤頭巾,空飛ぶ馬) 2『夜の蝉』(朧夜の底,六月の花嫁,夜の蝉) 3秋の花 4六の宮の姫君 5『朝霧』(山眠る,走り来るもの,朝霧)
 の順で刊行されています。【『 』は本のタイトル、( )内は収録作品、3、4は長編】

夜の蝉 記念すべき第一話「織部の霊」で大学二年、十九歳だった《私》も、『六の宮の姫君』で卒業論文に着手、「山眠る」で完成させ、いよいよ学窓を巣立ちます。みさき書房の編集者として歩み始めた《私》は、出版社ならではの謎に遭遇し、リドル・ストーリーの結末を考え、企画を立て、円紫さんの本を担当し……という多忙な日々の中で、新たな抒情詩を奏でていくのです。大掃除の際に見つけた「本」をきっかけに読んだ曾祖父の日記、そこにあった謎の一文を円紫さんに導かれて解く――こうして「朝霧」の幕が下ります。

秋の花 第五作ともなると、今までの物語に描かれてきた人物や挿話との相関が感動の域に入ってきます。この機会に再読三読なさっては如何でしょうか。思わず膝を打つ場面に出逢うこと必定です。「走り来るもの」に、「読者が、本を深いものにする。だから、本を読むことは楽しい」という円紫さんの言葉があります。

六の宮の姫君「これからも私は本を読んで行くだろう。そして本は、私の心を様々な形で揺らして行くだろう」と《私》は思います。〈積極的な読書〉から得られる精神の豊饒は、《私》を更に磨いていくことでしょう。人に知識を与え、経験を与える《時》は、同時に人を蝕むものでもあるのだろう――と知っている《私》は、これからも美しい齢の重ね方をしていくに違いありません。
「朝霧」の中で、巡りあわせの妙に打たれ暫し呆然とする《私》。その姿には、従前の物語に織り込まれてきた絲の緊密さに陶然とする自分自身を見る想いがします。切なく暗示的な幕切れは、次作への橋を懸けずにはいないでしょう。

(2004年4月9日)

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