現代私立探偵小説の旗手
S・J・ローザンの長編を読む

 現代私立探偵小説の旗手S・J・ローザン。対照的な境遇にあるふたりの私立探偵を主人公に、書きついだ長編が8つ、短編も2桁にのぼります。
 このたび刊行された第7作『天を映す早瀬』で2度目となるシェイマス賞最優秀長編賞を獲得、続く第8作のWINTER AND NIGHTではMWA最優秀長編賞を受賞と、その勢いはとどまるところを知りません。
 以下は、そんなローザンのシリーズ既刊の紹介です。

チャイナタウン『チャイナタウン』(1994年)

 旧正月をひかえて賑わうチャイナタウンの美術館から、貴重な磁器が消えます。盗品発見を依頼された私立探偵リディア・チンは、パートタイムのパートナー たるビル・スミスを相棒に、街を仕切る中国人ギャングと美術品業界の調査に着手。事件の周辺からは二重三重の謎が湧きだしてくる……。
 抜群のデビュー長編。
 28歳の中国系アメリカ人で、探偵としては新米のリディアが、手だれの先輩である中年(といっても、作者のホームページによれば、リディアの12歳年上に設定されているらしいので、この時点では40歳?)の2分の1アイリッシュ、ビルと事にあたるさまが、生きいきと語られていきます。なかなかに小言の多い母親や、すでに独立している四人の兄に対する、少々屈折した愛情表現。なかんずく、自然体で尊重しあい協力しあうビルとの間柄の心地よさ。ふたりが見せる絶妙のコンビネーションは、ほんとうに愉しく、彼女と彼のことばのキャッチボールを読んでいるだけで幸せになります。いっぽうで、紛糾する事件に、ディスカッションを重ねることで様々な可能性をさぐり、よけいな枝葉を払って解明への道筋をつけていくふたりの探偵ぶりは、謎解きの面白さを過不足なく味わわせてもくれます。
 正統派でありながら、清新な味わいにあふれてもいる、得がたい物語といっていいでしょう。

ピアノ・ソナタ『ピアノ・ソナタ』(1995年)

 晩秋。深夜ブロンクスの老人ホームで、警備員が殴り殺されます。地元の不良グループの仕業と警察は判断しますが、納得のいかない被害者のおじは、私立探 偵ビル・スミスに調査を依頼。かつて探偵の手ほどきをしてくれた老兵の頼みに、ビルは危険な潜入捜査を展開しますが……?
 シェイマス賞最優秀長編賞の受賞作。
 第2作となる本書では、語り手がビル・スミスに交替。少年時代から、短い結婚生活をへて現在に至る、波瀾に富んだ人生が、いくつかの挿話により簡潔に綴られます。深く印象に残るのは、彼にとって、ピアノがどれだけ大きな存在であったかということ。シリーズ物の主人公に音楽好きという属性があたえられることは少なくありませんが、以下のような感慨が浮つかずにすむ例が、どれだけあったでしょう。

 いつものように、ピアノは心をこめ気持ちを集中するよう、要求した。アニーが死んだ時にわたしを救ったのはピアノだった。デイヴが殺された時、わたしは不意を打たれて重傷を負い、一か月間入院した。その後退院しても数週間はピアノを弾くことができず、わたしは彼の死を乗り越えるのに地獄のような苦しみを味わった。時が経てば、誰しも生きていく力が湧くものだが、それは最初の数日、数週間をどうにか乗り切ってこそだ。そのための方法を、わたしはふたつしか知らない。ひとつが酒瓶で、もうひとつは音楽だ。

 本書では、元ピアノ教師の老人ホームの住人アイダという、忘れがたいキャラクターも登場。彼女との交流が読みどころのひとつとなっています。
 もうひとつの山場は、終盤危難にあったビルが、そこから“生還”するまでの数十ページ。そこで支えとなるのは、音楽と――リディアの存在です。ミステリを読んで目頭が熱くなることは、筆者にはあまりありません。本書のこのくだりと、R・D・ウィングフィールドの『フロスト日和』の終盤数十ページが、数少ない例外です。

新生の街『新生の街』(1996年)

 新進デザイナーの春物コレクションのスケッチが盗まれます。5万ドルの“身の代金”が要求され、受け渡しの仕事をもちこまれたリディアですが、不意の銃撃をへて、マディスン・スクエア・パークから金は消え、汚名返上のため、ビルとともにファッション界に真相をさぐろうとします。
 この長編第3作では、再度リディアが語り手をつとめます(以後の長編でも、リディアとビルは、1作ごとに主人公を交替し、本シリーズの一大特徴を形づくっていきます)。シリーズは一応の安定期に入ったといえそうですが、付け加えておかないといけないのは、事件の起こる世界が毎回大きく変わるという点でしょう。今回の場合も、一見華やかなファッョン界の内実を、物語の進展のなかで巧みに描いてみせます。作者の取材力と旺盛な好奇心に感心するしかありません。
 早春の街をリディアとビルが駆け回る、新鮮な探偵物語といった趣の1編です。

どこよりも冷たいところ『どこよりも冷たいところ』(1997年)

 アンソニー賞最優秀長編賞受賞作。
 トラブルの頻発するというマンハッタンの建設現場。頻繁に工具がなくなるばかりか、重機を盗み出す奴まで現れて、さらにはクレーンの操作係が失踪する始末。疑わしい班長の調査を依頼された探偵ビル・スミスは、レンガ工として覆面捜査を開始しますが、事件はエスカレートしていきます。連続する事件の裏には何が潜んでいるのでしょう?

苦い祝宴 『苦い祝宴』(1998年)

 中華料理店で働く青年4人が、ある日突然そろって姿を消します。彼らが勤めていたのは、チャイナタウンの大物が経営する有名店でした。みずからの暮らすチャイナタウンで起きた事件ということもあり、半ば強引に捜索の仕事を引き受けたリディアですが、相次ぐ予想外の展開に翻弄されます。大きなトラブルに巻きこまれていたわけでもない青年たちは、どこへ行ってしまったのでしょうか?

春を待つ谷間で『春を待つ谷間で』(1999年)

 ニューヨーク州北部にある田舎町へやって来たビル・スミス。いつもは山小屋でひとり休暇を過ごすために訪れる場所でしたが、今回は探偵としての仕事が待っていました。地元に住む女性の家から盗まれた品を探すうち、ビルの前には死体が転がり、家出少女が現れ、さらには何者かに襲撃されるにいたります――
 ビルとリディアはニューヨークを離れ、谷間の町で事件と取り組むことになります。調査の過程で、境遇の異なるさまざまな家族たちと対面するふたり。折りに触れ、痛ましい過去の記憶を呼び覚まされながらも、愚直に事件を解決しようとするビルの姿が強く際立ちます。

天を映す早瀬『天を映す早瀬』(2001年)

 リディアとビルは、香港に来ていました。リディアの敬愛するガオ老人の依頼で、親友の形見を届けに海を渡ったのです。初めての海外、熱気あふれる香港に、興奮を隠せないリディア。しかし、簡単なはずの仕事は、形見を渡す相手だった7歳の少年が何者かに誘拐されたことにより、予想もしなかった事態へと発展していくのです――
 2度目のシェイマス賞最優秀長編賞受賞作。
 ローザンの筆により鮮やかに描きだされた香港の街が、まず何をおいても強烈な印象を与えます。不慣れな異国では、銃も使えなければ、探偵免許も役には立ちません。たしかに実感できる唯一のもの――これまでつちかってきた絆を頼りに、重大事件に立ち向かうリディアとビルにご注目ください。

 ――さて、次なる第8作、WINTER AND NIGHTでは、ふたたび舞台はアメリカに戻ります。ビルが語り手となる、MWAの栄冠を獲得したこの傑作も、創元推理文庫より刊行予定です。ジョージ・P・ペレケーノス、デニス・レヘインらの賛辞を集める現代私立探偵小説界の気鋭のさらなる活躍に、どうかご期待ください。

(2004年1月15日/2006年12月10日)

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