本格一筋六十年 想い出の鮎川哲也

 わが国推理小説界の巨匠、鮎川哲也氏が去る2002年9月24日、亡くなった。享年83歳。

 大正8(1919)年2月14日(戸籍上の出生日。実際は1月14日だという)東京・巣鴨に生まれた。本名、中川透。9歳の時、父が満鉄(南満洲鉄道)の測量技師となったため、大連に一家で移り住んだ。ここでシャーロック・ホームズに始まり、翻訳物の推理小説を愛読するようになる。
 11年、中学卒業とともに東京の学校に進学するが、肋膜炎を患い退学。17年、「婦人画報」の朗読文学募集に佐々木淳子名義で応募した「ポロさん」が、翌年入選作として掲載される。この年には、クロフツの「ポンスン事件」に触発されて、長編第1作「ペトロフ事件」を大連で執筆している。翌年には東京に戻り、さらに翌20年、熊本県の球磨郡多良木町に疎開。その途中の数ヶ月間、福岡県の二島に居住していた。その経験が、後に「黒いトランク」に活かされる。
 21年に上京。拓殖大学商学部を卒業後、駐留軍民間検閲局(GHQ)に勤務しながら、「ロック」編集長、山崎徹也氏の引きで、同誌に那珂川透名義で「月魄」、薔薇小路棘麿名義で「蛇と猪」などを発表。
 24年、〈宝石〉の百万円懸賞に中川淳一名義の短編「地虫」と中川透名義の長編「ペトロフ事件」を投稿。後者が翌年、一等に入選。31年、講談社の書下し長篇探偵小説全集の13番目の椅子に応募した「黒いトランク」が見事入選を果たし、講談社から上梓するに際し、鮎川哲也の筆名を使用する。以後の活躍はご存じのとおり。35年には『黒い白鳥』『憎悪の化石』で日本探偵作家クラブ賞を受賞。
 平成13年には、できたばかりの本格ミステリ大賞特別賞を、そしてこの度、日本ミステリー文学大賞の特別賞受賞が決まった。晩年は、自らの名を冠した鮎川哲也賞の選考や、「本格推理」の編集で新人作家の発見育成、「幻の探偵作家を求めて」で埋もれた推理作家の尋訪、各種のアンソロジー編纂といった作業に精力を注いだ。新本格派をはじめ、現在斯界で活躍する若手作家たちの精神的な支柱として果たした役割は計り知れない。
 小社では、2002年11月、各界99名の方の追悼文、担当編集者による座談会、初公開写真多数を含むアルバム、そして年譜という構成の、山前譲編『本格一筋六十年 想い出の鮎川哲也』を刊行いたします。最後に、心よりご冥福をお祈りいたします。

 創元推理文庫では〈鮎川哲也【短編傑作選】I〉『五つの時計』、〈鮎川哲也【短編傑作選】II〉『下り“はつかり”』(以上、北村薫編)、長編では『黒いトランク』『黒い白鳥』『憎悪の化石』『死のある風景』『風の証言』が現在刊行されています。(以下続刊)

(2002年11月15日)
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