「古くて新しい」宇宙SFの傑作
ヴァーナー・ヴィンジ『最果ての銀河船団』
解説[部分]堺 三保

ヴァーナー・ヴィンジ『最果ての銀河船団』
中原尚哉訳/創元推理文庫
 SFの本質は未知の世界を描くことだと考える人。
 SFの醍醐味は宇宙を舞台にした冒険ものにあると思う人。
 SFにはリアルなサイエンスと破天荒な虚構とが同居しているべきだと信じる人。
 そういうSFファンは何をおいても本書を読むべきだ。
 本書こそ、そういう人々を狂喜乱舞させることができるSF小説なのだから。

最果ての銀河船団 最果ての銀河船団  遠い未来、ラムスクープ推進と冷凍睡眠を使い、人類は星系から星系へと版図を広げていた。だが、遠大な時間と空間によって隔絶された各星系の人類文明は、それぞれ退化と再興をくり返してもいた。そんななか、巨大な船団を組み、星から星へ技術を売り買いしてまわる商人たちの文明〈チェンホー〉があった。彼らチェンホー人は、謎の多い天体〈オンオフ星〉から発信される有意信号電波をキャッチし、調査に向かう。やはりオンオフ星からの電波をキャッチした別の人類文明〈エマージェント〉と先陣争いをしながら目的地にたどり着いたチェンホー人たちを待っていたのは、ダイヤモンドの塊でできた四個の小惑星と、たった一つの地球型惑星、そしてそこに棲む蜘蛛に似た非人類種族だった……。
 というふうに始まる本書は、2000年度のヒューゴー賞、ジョン・キャンベル記念賞、プロメテウス賞を受賞したヴァーナー・ヴィンジの A Deepness in the Sky(1999)の全訳であり、やはりヒューゴー賞、SFクロニクル読者賞を受賞したヴィンジの前作『遠き神々の炎』と同じ宇宙を舞台にした本格宇宙SFである。
 こう書くと「前の作品から読まないといけないのか」と思う方もいらっしゃるかもしれないが、そこはご安心を。舞台設定は同じものの、本書は『遠き神々の炎』よりもずっと過去の時代を描いた前日譚であり、一人だけ登場人物が重複する以外、話の本筋などはまったく無関係なので、本書から読んでいただいて何も問題はない。いや、いっそ本書を先に読んでから『遠き神々の炎』に進んだほうが、両者の世界観のこまかな違いなどを楽しめるだろう。
遠き神々の炎 遠き神々の炎  違いといえば、本書と『遠き神々の炎』はいずれも太陽系外の広大な宇宙空間を舞台にしているのだが、本書では『遠き神々の炎』に登場した超光速技術が徹底的に排除されているという点が大きく違う。つまり、本書に登場する人類は、光速の数分の一しか出ない宇宙船と、加齢を止める冷凍睡眠装置を使って、何百年という時間をかけてゆっくりと恒星間を旅するのである。
 ワープだ、リープだ、ジャンプ航法だと、架空の超光速航法を持ち出して、宇宙SFの舞台を太陽系の外へと広げてみせるのは簡単だ。ただその場合、移動する距離の数字が大きくなるだけで、そこに描かれている世界はわれわれの見知ったものとあまり変わらなくなってしまうことが多い。一方、超光速航法を作品世界内に持ち込まずにリアルな宇宙SFを書こうとすると、舞台を太陽系内に限定してしまいやすい。本書はいずれの道も選ばず、リアルな宇宙観と科学技術をもとに、銀河系の恒星間宇宙を舞台にした宇宙SFを書こうとしたところがおもしろいのである。
 そこに表れてくるのは、あまりにも茫漠とした宇宙の広がりだ。なにせプロローグの出だしの文章が「男の捜索は、100光年以上の空間の広がりと、8世紀以上の時の流れのなかでつづけられていた」であり、そのプロローグに続く第1部はなんと「160年後」という言葉から始まる。100年200年はあっというまに過ぎ去ってしまうのだ。
 この世界では、ひとたび恒星船に乗って宇宙へ出てしまえば、再び肉親や友人に会えない可能性が高い。いや、同じ船団で旅していても、当直と冷凍睡眠のサイクルが違えば、乗船時は年下だったはずの者が自分より年上になっていたりする。逆に、自分より何百年も前に生まれた人物と出会えたりもする。このため、世代が停滞したり逆転したりしながら、何十世代もの人々が渾然となって生きている。それは現在のわれわれの感覚とは相当かけ離れた社会であるといっていいだろう。しかし、なおかつそこにいるのは(寿命は若干延びているようだが)肉体的には今のわれわれと何も変わらない普通の人間たちなのだ。その普通の人間たちが、時間と空間の隔たりを越えて太陽系外の宇宙に進出していったときに何が起こるか。それを真正面から描いているところに、本書のSFとしての真骨頂があるのだ。

(2002年6月15日)
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