『マヴァール年代記(全)』
著者あとがき[部分]田中芳樹

田中芳樹『マヴァール年代記』
創元推理文庫
 これまで3分冊で刊行されていた歴史絵巻の傑作『マヴァール年代記』が、全1巻の文庫になって創元推理文庫に収録されました。本書刊行を機に、田中芳樹氏に「創元推理文庫版あとがき」を執筆して戴きました。


マヴァール年代記  10代のころの最大の愛読書というと、じつは『創元推理文庫目録』であった。ページをめくり、『何かが道をやってくる』『10月はたそがれの国』『黒いカーテン』『皇帝のかぎ煙草入れ』といった蠱惑的な書名を眺めては溜息をついたものだ。いつかこの目録にのった作品をすべて読める日が来るのだろうか。早くオトナになって、これらの本を買う費用をためなくては、と。
 このたび、かつての空想の枠を飛びこし、自分のつたない作品が『創元推理文庫目録』の一隅をささやかに占めることとなった。嬉しいという以上に、そらおそろしい気がする。まして山田章博さんの華麗なイラストや縄田一男さんの懇切な解説をいただけるとあっては、ただただ恐縮するしかない。
 私としては、右の二点だけで充分すぎるほどなのだが、著者として旧作をお色直しするに際し、多少の駄弁を弄して読者の方々への御挨拶に代えさせていただきたいと思う。
 このごろとみに記憶力が落ちて、すこし昔のことになると、「あれはたしか20世紀のことでした」などといってヒンシュクを買っているのだが、確認してみたところ、『マヴァール年代記』の第一部を雑誌に発表したのは1980年代後半のことだった。90年8月には文庫版が刊行されている。
 小説全般がどうなどとだいそれたことはいえないが、私の場合、素材を選ぶのに多少の周期めいたものがあるようだ。この時期には、『アルスラーン戦記』とか、この『マヴァール年代記』のような作品を、せっせと書いていた。いちおう「異世界ファンタジー」とか「架空歴史小説」とか呼んでみることにするが、要するに実在しない国や時代を舞台としたチャンバラ劇である。実際の歴史に取材しながら、「ここがこうなっていたら」「この人物がこういう状況下にいたら」などと改変を加え、はなばなしい空中楼閣を建設するのが書き手の楽しみであろう。
 ただ、空中楼閣を建設するにも、敷地が必要だ。固有名詞をふくめて、作品世界それ自体をゼロから産み出す作家もいるが、私の場合、敷地が欠かせなかった。だから『アルスラーン戦記』は中世ペルシアという敷地の上に建てられた。『マヴァール年代記』が建てられたのは、中世ハンガリーとその周辺諸国である。
 それらしい雰囲気を出すために、せっせと固有名詞の収集や生活風俗の研究にはげんだが、設定も資料も結局は物語に奉仕すべきものだ。中世ハンガリーをそのまま再現しても、その農業生産力ではマヴァール帝国のような大人口をささえることはできない。だからマヴァールではジャガイモが生産されていることにした。「つごう」というものを制御できるのが、異世界ファンタジーのありがたいところだが、「だったらいっそ米」というわけにもいかない。そのあたりが、ない知恵のしぼりどころで、現実世界という地上からの空中楼閣の屋根へと張り渡されたロープでの綱渡りを楽しむことができる。さて、この作品は、どうにか成功したといってよいのだろうか。まっさかさまに墜落、という惨状におちいっていなければ幸いなのだが……。

(2002年4月15日)
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