『黒衣の短歌史』
――『虚無への供物』秘話

黒衣の短歌史  中井英夫は『虚無への供物』の作者としてミステリ界に銘を刻むことになったが、生まれ落ちたときから『虚無』の書き手になることを志向していたわけではあるまい。
 短歌との出逢いの早さ、付き合いの長さは、短歌実作者としての経験が推理小説の読者となる以前だったという事実にも象徴されている。そこには、思慕する母が歌を詠む人であったことが与って大きい。長じるにつれ実作することが減っても、中井英夫にとって短歌は単なる余技ではなかった――『黒衣の短歌史』を読む上では、その一点を押さえられたし。中井自身「短歌でなら石川淳のいう“二番目の才能で花を咲かせ”られそうだと思った」と書いているが、決して石川啄木が悲しき玩具と自嘲したようなマイナー思考に陥っていたわけではなかろう。それは『黒衣の短歌史』から自ずと読み取れることである。

 昭和24年1月12日、中井英夫は日本短歌社へ出社する。二社、足かけ十二年に亙る短歌誌編集者人生の始まりである。社長の木村捨録が「月給の三倍働かない人はうちでは要りません」と言ったからでもあるまいが、二誌の編集・割付は勿論のこと、読者短歌の選から歌集紹介・歌誌月評のたぐい、時には本文カットや似顔絵も描き、出張校正に価格折衝、宛名書きに取次店への搬入等々、殆どワーカホリックの仕事ぶりは凄い。匿名時評や埋草の原稿書きだけでも売れっ子作家顔負けの需要があっただろうが、自分の「目」ひとつを拠り処に短歌壇との丁々発止を演じる精神力も舌を巻くしかない。このとき培われた原稿を書く腕力が、当時として破格の大作『虚無への供物』を執筆するに一助を為した、とは過小な評価ではないだろうか。

『虚無への供物』に関して本書『黒衣の短歌史』を探偵してみると、興味深いことを剔出できる。
 往復書簡の相手である歌人中城ふみ子は、知り合った29年春すでに乳癌の再発により札幌医大病院にあり(ここに渡辺淳一がいて、後年中城をモデルに『冬の花火』を書いた由)、同年8月3日に亡くなった。前年の斎藤茂吉、釋迢空に続いて、中井を大きく揺さぶった訃報といえるだろう。しかも中井は7月29日に札幌の中城を見舞い、8月1日夕刻帰途に就いている。その翌月に起こったのが洞爺丸の事故。遠い北の大地を踏んでから、印象が消え去るほどの時日は経過していない。明けて30年1月、歌人太田水穂の葬送に列なる際、鎌倉往復の消閑にとあつらえた『ユダの窓』を契機に『虚無への供物』の着想を得たことは知られていよう。

 執筆の基礎体力、死との接近、着想のヒントといったものは、単独で存在しても何も産まなかったかもしれない。しかし何らかの作用が大果を結ばせることになった。物事が成就し、星霜を経てから「必然」を論じるのは容易く、また中城ふみ子、寺山修司らを「前衛短歌の魁」と定義するの轍を踏むことになるが、解釈の遊戯を愉しむこともまた作品の持つ懐の広さ故である。小説の趣とは一色も二色も異なるもう一つの中井文学、是非一読をお勧めしたい。

(2002年2月13日)
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