鮎川哲也の長編ベスト3

 鮎川哲也の小説を読んでいないかたにその魅力の源を正確に伝えるのは、案外厄介な作業です。昔はアリバイ崩しの専門家とみなされ、最近では謎解き小説の雄という評価が定まりつつあると思うのですが、そのふたつの側面をひとつの像に結ばせるのが難儀なことなのです。アリバイ崩しにしても謎解き小説にしても書き手によってさまざまな姿を見せるものだということが、誰にとっても本当には実感されないからです。
 以下のベスト3はごくオーソドックスな内容ですが、コメントで多少なりともそのあたりのことに触れられればと考えています。では、始めるとしましょう。


1 『黒いトランク』(創元推理文庫)

 まず断わっておきますと、アリバイ崩しを扱った鮎川哲也の長編を読もうというかたに、これを最初に薦めるべきではないかもしれない、という危惧を僕は抱いています。この小説は極端であり、それゆえ馴染んでいない読者のなかには“ついていけない”と感じるひともあることでしょう。たとえば、エラリー・クイーンを薦めるに際して、いきなり『ギリシア棺の謎』を挙げるようなものです。にもかかわらず本書を第一に推すのは、やはりあの過剰なまでの面白さを抜くものがないからであり、アマチュアリズムが達成した最高の成果がここにあることを強調しておきたかったからにほかありません。21歳のときにこしらえた〈国内長編推理小説ベター10〉で、当時の僕は順不同としながらも本書をそのあたまに置いて、次のようなコメントを添えました。

 ……中でも(鮎川哲也のアリバイ崩し物の・引用者註)きわめつけの作品がこれです。あれだけ複雑――煩雑ではありません――な犯罪を明晰な論理で解明、かつその過程を読者に何の負担もかけることなく、むしろ無類の興味をもって読み進ませる力量は偉大としか言いようがありませんし、初期の作品らしく「事実、犯人が設定した巧妙をきわめた論理的な陥穽は、このトランクのからくりと難攻不落のアリバイとを砦として、鬼貫を徹底的にくるしめることになるのだった」とか「この靴磨きの少年との対話は、一見無意味であったように思えるけれど、後日になってみると、ここにアリバイトリックを破る鍵の一つがひそんでいたことを知らされるのである」とかいった稚気あふれる――もっとも作者の表現にはいささかの誇張もないのですが――文章も散見され、嬉しくなってしまいます。

 付け加えるなら、しかし『黒いトランク』という一作には、小説としての興趣もまた静かに盛られているのではないでしょうか。鮎川哲也が創造した名探偵・鬼貫警部。このひとの前にいかなるアリバイが立ちふさがろうとも、必ず鮮やかに解体されてしまう。そんな揺るぎない信頼感を与えてくれるという意味で、まさしくプロフェッショナルな存在ですが、本書ではかつて恋した女性のために謎を解かねばならない立場に置かれます。いわばこれは、鬼貫警部自身の事件であるわけです。鬼貫はけっして声高に感傷を、愛情を語りません。ただ、難解きわまる事件を相手に、黙々と調査と思考を積みあげていく。そこに……千万言をついやしてもあらわせない想いがみえることも、確かにあるのです。

2 『死のある風景』(創元推理文庫)

 このベスト3に特徴があるとしたら、本書をこの位置に据えたことでしょう。三位の『黒い白鳥』と遜色ない出来ばえだと思いますが、僕にとっては鮎川流アリバイ崩し小説にはじめて接したのがこの一冊であり、時刻表アリバイ崩し小説=退屈、という予断を粉微塵にしてくれた作として特別な存在なのです。『黒いトランク』がアマチュアリズムの結晶だとするなら、本書は、名実ともにプロ作家となった鮎川哲也が熟練の腕前を発揮した作品と言うべきでしょう。謎解き小説としての完成度といい、自然に愉しめる小説ともなりえている点といい、初心者に薦めたいという意味では『黒い白鳥』と双璧をなします。忘れられないのは、終盤“一本の鉛筆から”と題された章で、仮説と必然の論理をたどる鬼貫警部が、推理の軌跡が別の軌跡と交錯する瞬間を目撃し、解明に必要な閃きを得るくだりです。エラリー・クイーン流の論理重視の謎解き小説の醍醐味を、かくも見事に体現した場面はめったにあるものではありません。

3 『黒い白鳥』(創元推理文庫)

 アリバイ崩し小説のなかでも、鉄道などの時刻表を材料に全編の謎解きがおこなわれるものは、一般に流布しているイメージほどには多くありません。長編ともなれば、さまざまな副トリックや小道具をしつらえ、その総合力で勝負する必要があるからです。そんななかにあって、鉄道アリバイ崩しの最高傑作と呼ぶに足るのが本書(『憎悪の化石』と、日本探偵作家クラブ賞を同時受賞しました)でしょう。角川文庫版の荻昌弘の解説が過不足なくその美点を伝えてくれます。

 ……『黒い白鳥』は、鮎川哲也独特の鉄道トリックのなかでも、ふだんわれわれ日本人の盲点となっている……を、非常にみごとに、しかも、さりげなく、キーポイントとしている点が、今なお新鮮であり、読者に強烈なショックを与える原動力ともなっている。……再読してはじめて、この探偵小説の価値は、氏が、単に時刻表からトリッキイな一列車をみつけだした、などという毎度の発見にあるのではなく、「時刻表」や鉄道の機構そのものにひそんでいる日本的な(以上四字に傍点・引用者註)盲点を、心理的に鮮やかに活用しきっている創見を、思い知ったのである。……本作品の真価は最後の最後の、鬼貫による種明かしの、しょい投げ的効果にある。つまり最後の二ページにいたって、殆どの読者は、事件解決のカギは既に小説のすべりだしといえる部分に……示されてあったことを思い知らされ、わが身のうかつさに唖然とするのである。

別格 『りら荘事件』(創元推理文庫)

 アリバイ崩し物とはいえない長編を一作だけ挙げておきましょう。
 一軒の屋敷に発生した連続殺人事件を、鮎川哲也が創造したもう一人の名探偵・星影龍三が快刀乱麻を断つごとく解決してみせる、華やかな謎解き小説です。1980年代後半に登場した日本の新本格派の、遥かな先駆ともいうべき作品ですが、展開のさせかたにせよ、けれんの仕掛けかたにせよ、技法的には完成の域に達しています。同じ連続殺人を扱った謎解き長編の名作として横溝正史の『獄門島』(『日本探偵小説全集 横溝正史集』所収)あたりと比較すれば、本書が新本格派寄りのモダンな仕上がりであることが呑みこめるでしょう。お気に召したかたは『五つの時計』に収められた「薔薇荘殺人事件」をどうぞ。犯人捜し小説の傑作です。

(2001年11月29日/2006年5月15日)

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