東京創元社60周年

 

わたしと東京創元社  酒寄進一(翻訳家)

 

薔薇の名前

 東京創元社というと、翻訳小説の版元という印象が強い。翻訳ものが好きな読者として、若い頃からずいぶんお世話になってきた。ぼくがファンタジイ好きになった最大のきっかけとなった出版社でもある。なんといってもラヴクラフトとの出会いは大きかった。そして翻訳家になることを意識していた一九八〇年代にガツンとやられたのがマーヴィン・ピークのゴーメンガースト三部作。それからファンタジイではないが、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』も忘れがたい豊饒(ほうじょう)な読書体験だった。

 

 数年前、他社でファンタジイの単行本が出しづらくなったとき、こんな読書体験だけを頼りに編集部を訪ねた。めざすは創元推理文庫でファンタジイを出してもらうこと。ところが編集者との話題はドイツのミステリに逸(そ)れ、気づくと、翻訳活動をミステリまで広げなくてもいいかなあと思っていたぼくの「開かずの扉」がこじあけられていた。今の悩みはファンタジイの翻訳になかなかもどれないこと。恐るべし、東京創元社編集部。

 


■酒寄進一(さかより・しんいち)
1958年茨城県生まれ。上智大学卒。91年、訳書であるホイク『砂漠の宝』が第38回産経児童文化賞を受賞。2012年、訳書のシーラッハ『犯罪』、2014年本屋大賞翻訳小説部門第1位に選ばれる。主な訳書に、イーザウ《ネシャン・サーガ》シリーズ・『緋色の楽譜』、シーラッハ『罪悪』『コリーニ事件』、ノイハウス『深い疵』、クッチャー『濡れた魚』、シャミ『愛の裏側は闇』ほか多数。