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(〈ミステリーズ!vol.23〉より)

道尾秀介
道尾秀介。2007年5月16日、東京創元社にて。

 ――おふたりとも、お互いの受賞作をそれぞれお読みになったということで、ご感想を伺いたく思います。まずは道尾さん、『赤朽葉家』はいかがでしたか?

道尾 まず、単純に面白かったです。あんまり面白かったので、未読だった『少女には向かない職業』『少女七竈(ななかまど)と七人の可愛そうな大人』を続けて読んでしまったくらい(笑)。どちらも本当に面白かったです。『少女には』は冒頭でぶったまげました。いきなり「私は人を悪意とバトルアックスで殺した」ですからね。物語の展開に対する読者の期待値という意味で、ものすごく高いハードルを設定してるなって。それで、そのハードルを軽々越えていっちゃう。
 先に読んだ『赤朽葉家』でも同じように感じたんです。やっぱりひとつの読み物として嵩(かさ)があるし、テーマも難しいじゃないですか。でも、そうしたものを楽々と越えていく。なんでもっと早く読んでおかなかったんだろうって(笑)。
 すごく度胸のある方だな、と思います。本当に自分のやりたいことをやっていて、それでいて読者との距離の取り方が板についている。なかなかこれは、キャリアの浅い作家には真似できないなあと。

桜庭 ある程度年季がはいってきたから書けた作品だという気持ちはあります。「前はあれができなかった」「これができなかった」というのはよおく覚えているので、できるようになろうと悩みながら書いてますので。歌舞伎でいう“見得”が切れるようになったというか、まさしく度胸がついたんだとは思います。
 売れてなかった時代にはすごく自信がなくてできなかったことも、今ようやくできるようになったりとか。『少女には』でも、はじめに殺人を宣言しちゃうなんて、自信がない頃は絶対にできなかった。技術や経験が身についてきて、ちょっとずつできるようになってきたのかな。デビュー作から売れる作家さんというのは、最初からそれができる人なんだと思います。
 度胸と技術というのは表裏一体で、自分には技術があるからできると信じてないと絶対に書けない。

道尾 僕は特に読点の使い方にびっくりしたんです。『少女には』で、たしか「県道の横に広がる、海」みたいな文章だったかな、「広がる」と「海」のあいだに点を落とすことで、海がばーっと眼前に開けるような感じがする。独特な打ち方をされますよね。

桜庭 外国の映画を観ていて、字幕やしゃべり方で「ここでこの言葉を使うのか!」とハッとさせられたりとか、音楽を聴いていて「この言葉はこういうふうに聞こえるのか!」とか、そういう小説の文章とは違う部分をもう一度小説のほうに持ってこられないかと考えています。ほかには少女マンガのモノローグとかも。独特というのは、そういう小説以外のものの影響があるのかな。

道尾 自転車をこぐシーンで、「県道を、飛ばす飛ばす」なんてのもありましたよね。あれなんかも小説の文章としてだけ考えていたら絶対に出てこない表現だと思います。小説を「眉間にしわをよせてわたしは読む。読む」とか。

桜庭 短いセンテンスのくり返しが好き、なのかも。

道尾 僕ならそこで2、3行使っちゃう。こっそりパクろうと思いました(笑)。
 別のところでしゃべったことと一緒になっちゃうかもしれませんが、『赤朽葉家』だと、僕は圧倒的に第3部が好きなんです。第1部と第2部を受けているのに、いきなり彼氏の話がはじまり、ふつうの青春小説みたいになって一見トーンダウンしたかのようでいて、読んでいくとやはり主人公の女性が時代を体現しているという構造を貫いているんだと気づいたとき、ああすごいなあと感心しました。
 僕は第1部で、万葉(まんよう)がどこまで先の未来を視(み)ていたんだろう、というのが気になったんです。自分が未来視した光景と同じになるように、わざわざ鏡を動かすシーンがありますよね。息子が死ぬことを知っていながら、その運命を変えようともせず、むしろ運命に従うような行動ばかり取るのが、ずっと不思議で。でも、作中では書かれていないけれど、ひょっとしたら万葉は第3部で瞳子(とうこ)が自由と解放と初めての恋愛結婚を手に入れるところまでを視ていたからそうした行動をとったのかなとも考えて。
 僕はこの作品を、結末の解釈を読者に委ねる一種のリドル・ストーリーとして読んだんです。第3部には「万葉はどこまで未来視していたか」という謎も含まれているんじゃないかなと。そうしたことは意識されましたか?

桜庭 意識している部分と、無意識で書いている部分があると思います。万葉の言動は「そうせざるを得ないだろうな」と思いながら書いていました。

道尾 はっきり意識してたら、もっとあざとい書き方になったのかもしれませんね。

桜庭 万葉の世代は「受け容れる」生き方をした世代だった、という考えもありました。場所や人となりもそうだった。自分の居場所を探すのではなく、家があって、その家で求められている生き方をしていく人。未来に抗うのではなく、未来に耐えていく人。万葉はそういう人として書きました。
 義務がなくなり、自由だけが与えられた世代の瞳子については、おばあちゃんとしてある程度未来を視ていたのかな。ちゃんと生きていくんだ、ということは視た上で、そういう心配はしなかったんだろうって。

道尾 瞳子に関しては、「伯父の泪(なみだ)が死んだからわたしがいる」という趣旨のセリフがありましたよね。たしかに彼が死んでいなければ瞳子は生まれなかったわけで。もし泪が死ななかったら第3部はどうなっていましたか?

桜庭 ……ボーイズラブになっていたんじゃ(笑)。彼は同性愛者だから。
 でも彼は死ぬしかない人だったんです。そのことは決まった未来として書いていたので。死ぬために生まれてきたというか。

道尾 本当にいろいろな観点から読める本だと思います。



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