自分が誰なのか分からないので
ぼくたちは
知ろうとするのだ
せめてあなたが誰だったのか
リンドバーグ・サンドウィッチは
大西洋横断飛行に失敗し
胃袋に墜落する
時代の熱はありとあらゆるものを料理して止まない
――『聖フランチェスコの鳥』
年末。
もう本当に、師走。
お仕事で人に会う予定も全部終わった、夕方。一人で京王線に揺られてる。
窓の外はまだちょっと明るい。関東全体を覆う寒波の日で、外はきっとすごーく寒い。
調布に住む友達の二世帯住宅に向かってるところ。足元には高野フルーツパーラーの紙袋。友達の子供に、ハムの人ならぬ、フルーツの人として記憶してもらおうと言う魂胆で、いつも持っていくのだ。本当は先週、レストランでみんなで集まる予定だったのだけど、子供が熱を出しちゃったと連絡があって、流れたのだ。それで今日はその子の家でみんなで料理を、という話になった。
友達は独身の頃、恵比寿のマンションに住んでて、ある日、遊びに行って鍋をつつきながらふと本棚を見たら、『精霊たちの家』(イサベル・アジェンデ/国書刊行会)があった。「これわたしも好き!」と菜ばしで指差して叫んだ。あの子はいまなにを読んでるのかな?
しかし新宿から調布はけっこう遠い。さっきから座席に腰かけて、『聖フランチェスコの鳥』(田口犬男/青土社)をぱらぱらしてる。これけっこう好き……。こういうの現代詩っていうのかな? じつはよくわからない。まだ若い人だろうか? 著者のことがなんにも書いてない本なので、まるで昔、図書館で借りた外国の本みたい(帯とかがなくて、どんな内容かよくわからないまま手にとって、そのわからなさがよかった)。
ぱらぱらしながら、考える。今年一年はばたばたしていて、それに、いままで好き勝手に書いて読んでたのが、文芸の業界の内側、すごくちいさくて濃い場所を急に覗いた気がする。それは不思議な体験だったけれど、そこに吸いこまれきってしまったら、本を読む現場から知らずに遠ざかってしまいそうだ。
事件は会議室じゃなくて現場で起きてるし(古いぞ……)、本も業界ではなくて、本屋で買われて、誰かの部屋で、喧騒の教室の隅で、あとこうやって電車の中で読まれてる。そのとき、そのときの瞬間に、せめて自分の本が誰かに読まれているときは、その現場にいたい、そこから離れたくないと思う。
どうやったらずっと本と一緒にいられるだろう?
……『聖フランチェスコ』を読み終わったので、つぎの本を出す。絶版だなぁとがっかりしていたら、川出(正樹)さんが贈ってくれた(クリスマスプレゼント?)スティーヴン・ドビンズの二冊目『死せる少女たちの家』(ハヤカワ文庫NV)だ。影のサスペンス委員会の名称はいろいろあって「サーカス(Suspense Revival Committee of Shadowの略)」になったようだ。それで思い出したけど、そういえばK島氏のお勧めはジョン・フランクリン・バーディンの『悪魔に食われろ青尾蠅』(翔泳社)らしい(あと、知らない人から自分のHP宛に「黒魔術で『第三の警官』(フラン・オブライエン/筑摩書房)を復刊させよ」とミッションが。誰だ……)。『青尾蠅』、手に入れば、お正月に読みたいなぁ。絶版かしら……。
少しずつ混んでくる電車に揺られつつ、サスペンスのことを考えていたら、自分の小説のことも頭をよぎりだした。しばらくばたばたしてたけど、そろそろつぎの長編を書きたいな……。04年に書いた『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の海野藻屑は中学生で殺されたけど、06年から07年に書いた『私の男』の腐野花に転生して20代半ばまで生き延びた。さらに『ファミリーポートレイト』のコマコになって、フラフラだけど30代まで生き、家族を作って子供を産もうと、似合わないことをしてる。
あの子はこれからどうなるのかな?
窓の外で日が暮れてくる。両手で握って、開いた本の中で、作者ドビンズの手で軽々と女の子たちが死んでいく。電車は大切な友達の家庭に向かって揺れている。日はどんどん暮れていって、いつになく大騒ぎだった今年ももう本当にそろそろ終わってしまう。
手の中に本があるからわたしは安心している。時間は容赦なくどんどん過ぎていく。
もうすぐ2009年がやってくる。
(2009年1月)