Webミステリーズ!
メールマガジン登録はこちら
携帯サイトコード
携帯へURLを送る
2008年12月

海の向こうのベストセラー
【桜庭一樹写真日記◎海の向こうのベストセラー】 乗り換えで立ち寄ったロンドン、ヒースロー空港内の書店で。J・K・ローリングとグリシャムとジェフリー・アーチャーだっけ? よくわからない。あとこないだラスベガスに行ったときに乗り換えのロサンゼルスの空港でも見たけど、オバマの本がまた山積みでした。(桜庭撮影)

 いや、嘘を言わないでください。あなたがたはわたしをこわがっておられるのではない。生をこわがっておられるのです。

――『死神とのインタビュー』

12月某日

 inダブリン。
 の、郊外のホテル。
 三日目の朝。
 コーヒーを飲みながら、ぼーっと窓の外を見てる。まるでヒースの荒野みたいな、なにもない灰色の空間が広がっている。枯木が夕刻のような風にぶるると震えている。ススキに似たくすんだ野原。額縁ごと揺れるように、窓枠の中で右から左にかたむいては、寒そうにもどる。
 ――昨日の夜、ダウンした。
 朝、ジョイスのいっちゃってる友達が銃をぶっぱなした現場(塔の二階。いまはジョイスタワーという観光地で、ジョイスそっくりのジョイスファンの上品なおじさんが管理人)で取材して、その後、パブでの昼食風景を撮り、車で郊外に移動して、大雨の中、なるほど『吸血鬼ドラキュラ』の著者、ブラム・ストーカーはアイルランド人で、ルーマニアには行ったことがなく、ドラキュラの舞台はアイルランドがモデルだ、という説は本当だったのだと信じられるものすごい墓場を、カメラに向かってよろよろと歩いた(なんとなく、アニメ版「ゲゲゲの鬼太郎」のテーマソング「夜は〜墓場で〜運動会〜」のときのアニメの墓場と雰囲気が似てた)。そうとう車酔いしてたので、同行した講談社の担当I本女史によると「墓場から這い出てきたみたいでしたよ〜」。自分もそんな気持ち。
 夕方から、ゲーム「バイオハザード」を髣髴とさせる薄暗くて重厚な雰囲気のホテルの、暖炉の前でインタビュー。どうしてアイルランドの小説が好きなのかちゃんと説明できた(栩木伸明さんに感謝……)。
 夜、TBSの人のおごりでホテルのディナー。前菜の鹿肉をつまんで、シャンパン二杯、白ワイン半分ぐらい飲んで、メインの牛肉がきて赤ワインを注がれた辺りで、急激にせりあがってくるものあり。
 いかん、と立ち上がって、部屋にもどります、というと、I本女史が「大丈夫っすか!」と追いすがってくる。メインディッシュの席で噴射しちゃ迷惑、と思って走って宴席を離れると、その鬼気迫る様子にI本女史がさらに、

I本女史「大丈夫っすか!」
わたし「大丈夫です後で電話してください!」
I本女史「大丈夫っすか!」
 レストランを出て、なんかウェイティングルームみたいな洒落た部屋を小走りで(頭を揺らすと気持ち悪いのでかなり小股)抜け、つぎの間へ。と、後ろから、
I本女史「大丈夫っすか!」
わたし「!」
 ま、まだ追ってくる……!
 弱ってるところを他人に見せたくないのに……(一人っ子だから……)。
 なんとなく、飼い主に死ぬところを見せまいと、家を出て一匹ぼっちで山にのぼっていく、老いた猫の気持ちが今よーくわかった気がする。
 でも……。
 飼い主は、猫が死ぬところを見届けたいだろう。
 作家も、編集者に、倒れて口からシャンパンと鹿肉を噴射するところを見せたくない。
 が、編集者も、作家がついに力尽き、息を引き取るところまでしっかり見届けたい(たぶん)。
 というわけで、I本女史がいつまでもいつまでも、バイオハザードみたいな山奥のホテルの、薄暗い続きの間を、走って追ってくる(しかも追い越されそうに早い……)。さらに、このホテルの続きの間っていうか、抜けても抜けても似たような暖炉の部屋とか銀の燭台で蝋燭が揺れてる部屋とかよくわからない細長い部屋が悪夢のように続いてる、この情景っていったいなんなんだ。洋風の赤朽葉家みたい……。
 なんとか振り切り、映画『ローズマリーの赤ちゃん』の舞台(だっけ?)、ダコタホテルみたいな古いエレベーターに飛び乗る。部屋にもどり、バタンキュー。
 ……というのが、昨日の出来事だ。あれから12時間近く寝て、起きて、いまは窓の外の見事な荒野にぼんやりとみとれている。
 観光地とか、なにか確固たるものがあるところより、こういう茫漠とした場所が好きだなぁ。元気になったので、風呂に入って、中で持参した短編集『死神とのインタビュー』(ノサック/岩波文庫)をところどころ読んで、出てきて、ホテルの外の荒野を散歩した。
 1948年にドイツで刊行された『死神とのインタビュー』の表題作は、第二次世界大戦後の、なんともいえない空気を、自分たちと同じように市井の人として生きている死神の青年と若い作家Nとの会話を通して伝える短編。ドイツ帝国崩壊の後、「廃墟の文学」の一つとして読まれたらしい。
 解説を要約すると、“二次大戦後の新しい文学は、弱いものの立場を語るもの。召集されて前線という死地を彷徨った末に無意味な死に遭遇した無名の兵士達の偽りない声”の代弁でなくてはならなくて、しかも“被害者の虚脱感と加害者の罪責感の二重苦に苛まれるドイツでは、滅びの美学などを成立させる余地がなかった”。ノサックはその時代に、ドイツの廃墟から悲しみと怒りとともに這い出てきた新しい作家の一人、らしい。
 わたしは第一次世界大戦と二次大戦とのあいだの時代に書かれた小説が好きで、なにかのインタビューに答えて「人間にたとえると、この時代は、最初の挫折をしてちょっとシニカルになった18、9歳の青年期。二次大戦後は、明るい未来への展望を失った30代。21世紀は老人。わたしたちは若いが、しかし世界は晩年を迎えている」と言ったことがある。この小説は、世界がまだ30代だったころの荒涼を伝える、すごい生々しい証言だと思って、好きだなぁと思った。
 すぐれた小説は時代の証人になって、時の舟に飛び乗って未来に届くのだ。聖書に手を置き宣誓をして、この時代の絶望はこうだったのですと未来に向かって叫ぶのだ。
 ……すごい。
 と……なにか遠くから声が……。
I本女史「大丈夫っ……すかー……」
わたし「!」
 顔を上げると、ホテルの外をそぞろ歩くわたしに向かって、遠くから見覚えのある女性が手を振りながら近づいてくる。I本女史である。
I本女史「なんだか予感がして、外に出たら、作家発見ですよ。いやぁ、編集者の勘ってやつでしょうか。あっ、もう顔色いいですね〜」
わたし「勘?」
 なんてことだろう……。
 猫と違って、編集者に気づかれないように死ぬことは困難だ、という気がしてくる。ヨシ、赤い地平線を超えていなくなった……つもりで、走りきって超えた地点で待ちかまえてた編集者に忍者の網みたいなので捕獲され、気づいたら書斎にもどっちゃってた昔の文豪とか、いるかもしれない……。
 荒野をそぞろ歩きながら、ダブリンがジョイスやオスカー・ワイルド、ベケットにバーナード・ショーなど、たくさんの作家を輩出しつつ(ノーベル文学賞が4人も出てるって、人口から見ると多すぎらしい)、町の人たちが作家を身近に感じつつ愛してる、独特の感じ、について話す。銅像も文豪然としてなくて面白いポーズ(ワイルドなんか薔薇をくわえてウインクしてる)だし、作家の特徴をカリカチュアした絵をやたら描いては壁に飾ってるし(愛がありつつ、高見の人じゃなくて町の人たちにすごくいじられてる)。日本人のガイドさんと、同じく日本人(しかも鳥取出身)の現地在住のヘアメイクさんによると、若い人はオスカー・ワイルドのことを「オスカー」と呼んで慕ってるらしい。反骨、反道徳の人であったし、よいときはイギリス人として扱われ、悪いとき(同性愛で有罪になり、監獄の中でプレスリーみたいにブクブク太って、50歳ぐらいで死んじゃった)はアイルランド人として裁かれたところに感じることがあるらしい。ジョイスもまた、慕われ方がなんというか、日本でいうところの文豪というより、もっと身近な、うーん、国民的歌手(美空ひばり?)、みたいな感じに思える。
 でも日本でも、死んでから文豪っぽく歴史を整えられるけど、生きてるときは“国民のおもちゃ”だった人もいるんじゃないかな、と頭を絞ってみる。昔読んだ『平凡パンチの三島由紀夫』(椎根和/新潮社)で、なんとなく文豪なイメージ(新潮文庫の?)だった三島由紀夫の、生前のいじられっぷり、“カラフルなサブカルっぽさ”を発見して、お〜も〜し〜ろ〜い〜、と静かにはしゃいだのを思いだした。
 まるで夕刻のようだったアイルランドの灰色の朝が、それでもすこしずつ昼に向かって明るさを増してくる。昨日倒れたせいで今日の撮影が夕方からになったので、昼からゆっくりダブリンにもどろう、という話になる。
 ……辺りを見回す。
 なにもない、見知らぬ荒野が、とても落ち着く。どっか離れがたい。
 自分はなにもない場所が好きだ。またゆっくりきたいな、と思う。
 I本女史と並んで、ホテルまでの、枯れかけた草だらけのでこぼこ坂道を上がっていく。風の音も聞こえない。とても静かだ。ただ作家と編集者の足音だけ。
 とにかく静かな場所だ。



↑このページのトップへ
ひとつ前のページへもどる《Webミステリーズ!》のトップページへもどる