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2016.02.22


ウンベルト・エーコ氏追悼 橋本勝雄

 小説『薔薇の名前』の著者ウンベルト・エーコ氏が2月19日の夜、ミラノの自宅で亡くなったとの知らせが届きました。1月5日は84歳の誕生日でした。2年前に癌の診断を受けたと報じられています。葬儀は23日15時からミラノのスフォルツェスコ城で行われるようです。
 今回、邦訳『プラハの墓地』の完成をお伝えし、ご挨拶する機会を期待していた訳者として、驚きと悲しみに加えて、もっと早く訳稿を仕上げたかったと後悔の念が募ります。体調がすぐれないと聞いたことはありましたが、昨年8月、翻訳についての相談にお返事いただいた時には病気のことなどまったく知りませんでしたし、年末に出版社「テセウスの船」創立のニュースを知り、これから新天地でさらにご活躍されるものと信じていましたので、突然の訃報に悲しむばかりです。
 再現する世界や扱うテーマに応じてさまざまな文体を使い分けるエーコですが、小説、研究書に共通して言えることは、複雑で難解なことがらについて、思いがけない事例と明晰な論理を使って読者の関心と省察を促す巧みな話術ではないかと思います。
 きまって言及されるその博覧強記にしても、知識をひけらかすためではなく、知ること、自分で考えること、そしてその知識自体を疑うことがどれほど重要でかつ面白いかを伝えるためにありました。たとえばロングセラーとなった『論文作法』と文学パロディ『ウンベルト・エーコの文体練習』のように、アカデミックな厳格さと自由な遊び心が自然と両立するのも、そうした批判的精神によるのかもしれません。
 どの小説にも登場する、さまざまな引用と長い列挙、脱線に思える描写は、一見すると読みにくいものに見えて、実際には物語世界を構築する舞台装置として計算され、「読みにくさ」も含めた読者に対する効果を考えて書かれています。つねに時代考証と読者の理解しやすさに心を配りながら作品を書くという意味で、読者論の理論家らしい作家だという気がします。
 さらに教育者としての情熱と、周囲を楽しませるユーモアは、エーコを知る誰もが語る魅力でした。訳者もボローニャ大学に留学していた1994年、ちょうど出版された小説『前日島』について質問する機会に恵まれ、丁寧な対応に感激したのを覚えています。
 エーコはその年の開講記念講義で、『シオン賢者の議定書』を含めた偽証や偽説が歴史に与えた影響について語っていました。『フーコーの振り子』以来の偽書と陰謀論をめぐるこの考察は、のちに評論「虚偽の力」へと発展し、さらに『プラハの墓地』に続きます。その翻訳を担当させていただけたことに不思議な縁を感じます。
 覚悟はしていたものの予想以上に翻訳作業は難しいものでしたが、それだけに各所でさまざまな驚きと発見があり、悩みながらも楽しい経験でした。
 訳者として、そして多数の著作を通じて学んだ読者のひとりとして、直接伝えられないことは残念でなりませんが、本作に託されたメッセージが日本の読者に届くことを願いつつ、訳書とともに、Grazie, professoreのことばを捧げたいと思います。先生、ありがとうございました。

2016年2月22日 橋本勝雄


 


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