東京創元社公式アカウント
と、それから店を変えて、特装本と一緒に、半年振りにスタアバーに顔を出した。おぉ、わたしが座ってぐったりしてた椅子。稲荷寿司食べてたテーブル。おぉ。 Y安編集長が、誰かが新居を建てるとき、内装も全部奥さんに任せたけれどもひとつだけ条件として「二階に俺専用のトイレを作ってくれ」と頼んだ、という話をする。「書斎じゃなくて?」「残念ながら、書斎を作る予算まではなかったらしい」「うむー」そこから、北尾トロさんのエッセイ『男の隠れ家を持ってみた』(新潮文庫)を思いだして、あとわたしの男の子の友達――っていうかもうだいぶ年取ってるけど――が、ついこないだ「家族も大事だけど一人の時間もどうしても必要で、切羽詰り、一人で安ホテルに飛びこんだ。なにするって、本読んだり、ブログ更新したり、小説書いてみたりするだけなんだけど」と言っていたのもよみがえった。 その昔、ヴァージニア・ウルフは女性たちに、我らに必要なのは「自分だけの部屋だ」と語ったけれど、現代においては、男の子たちにこそ「自分だけの部屋」が必要なのではないか? といった話もする。 じんわり……。 現代とはなんだ? 大人が子どもの面を持ち、男がかつての女の苦悩を生きる。うむー。 しかしわたしはそれを語るのではなく、書かなくては。作家なのだ。 と思ってたら、Y安編集長が「そういえばシゲがそのテーマで書いてたなぁ」と言うので「シゲ?」「重松清さん」「おぉーーっ!」いかん、読んでみよう、と手帳にメモ。うぅ。そうだよ。そうだよ。書かなくては。なぜなら我らは作家なのだ……。 お? 新しいお客さんが入ってきた、と思ったら、松田哲夫さんと「王様のブランチ」のディレクターさんだ。松田さんに最近おもしろかった本は、と聞くと、あっ、大倉崇裕さんの『聖域』(東京創元社)の話になった。K島氏のつくった本なので「担当が一緒です」と威張る(?)。 カクテルを四杯飲んで、最後のグラスホッパーでだいぶ回って、夜中にご機嫌で帰宅。 酔って風呂に入ると死ぬ(かもしれない)ので風呂は後まわしにして、酔い覚ましに読書する。先週の誕生日に、元〈別冊文藝春秋〉担当の紋別君で、いまは〈月刊文藝春秋〉編集部のT村君(あだ名をやめて本名で呼ぶことにした)から届いた、中国の女性作家、残雪の短編集『カッコウが鳴くあの一瞬』(河出書房新社)を読む。大学のときに教材として読んだ本らしい。 中国の田舎に住む少女、もしくは女が主人公の物語が続くけれど、どうしてだろう、まるで廃墟になった近未来の情景のように書かれている。ひとつ前の世代になら決して書かれない方向性で土着の田舎のファンタジックさと閉塞感が浮き出されていて、とにかく空気が、とても不思議だ。共感と畏怖を行ったりきたりする。この感覚はわかるぞ、近しいものだ、と思ったらつぎのページではグンッと音を立てて遠ざかる。 不思議な女。 不思議な作家。 酔いが醒めてきた。風呂では随筆に切り替えようと(小説だと興奮して茹だる)、小川国夫の遺作随筆集『虹よ消えるな』(講談社)に切り替える。義太夫を唸る祖母についての回想から“彼女から私の孫まで、作家としての私の見聞は150年。ということは、一人の小説家の目と耳は意外と長い時間に及ぶのだ”と結論づける「最初の登場人物」がおもしろい。それと、病の母を日本において、友と異国を旅する青年の心象風景を描いた「サント・マリー・ド・ラ・メール」も、静かで、死の匂いに満ち満ちて、真夏に風呂で読んでるのに薄ら寒くてよかった。 誰かの最後の本からときどき感じる“あれ”がこの本にも漂ってる。明らかに死臭だけど、清らかな。本棚に大事に入れてある『ひさしぶりのバッハ』(清岡卓行/思潮社)とか『ビリーの森ジョディの樹』(三原順/白泉社文庫)を思いだした。 風呂上がり、床に大の字になって、未来に存在する、自分の“最後の本”のことを、夢見るようにいつまでも考える。 わたしもみんなと同じように、倒れるまで書いて、それで最後の言葉をきらきらさせるのだ。 生きるぞ。 と思いながら、ベッドにねじのぼってうつ伏せでバタンキュー。寝た。