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2008年6月

見えぬ肉体
【桜庭一樹写真日記◎見えぬ肉体】うちにあった『マノン・レスコー』2冊。肉体の描写がないからどんな女かよくわからない……せいか、本によってビジュアルがばらばらだー。左のなんて、日本人でVシネマ風なのだった。 (桜庭撮影)

 マノンについて、「私」は、美しい、魅惑的な、洗練されて優しい風情、恋そのものの風情、などときわめて抽象的であいまいな形容でしか言及できない。お望みならいくらでも挙げられる。卑怯な、不実の、哀れな、奇妙な、可哀相な、不幸な、うそつきのマノン。身体的特徴はことごとく、逃れる、身をかくす、おずおずと、失神も同然、青ざめた顔、ぐったりとした、ものうげな、むごいもの、として物語中に散在する。マノンがサン・シュピルスの面会所でみずみずしいのも、G・M老人の館ではしゃぎ回るのも、折々の気紛れな態度も、マノンの死体の変容をみとどけた「私」が語っているのだということを忘れてはならず、それゆえにこそ「私」の悲しみも読者の同情も倍加する。
 たった一つの場面、最後の埋葬の場面がすべてだ。それが小説の中に、他のあらゆる場面をつなぐ蝶番のようにセットされている。テキスト全体をマノンの「墓」とみなしてもいいぐらいだ。マノンに肉体がないのではない。死体があるのだ。

――『マノンの肉体』

 月曜であーる。
 金曜の夕方と月曜の昼は編集さんからの連絡がやたら多い。この日も、電話とメールがあれこれあって、ばたばたする。
 と、角川の担当K子女史から連絡。7月末に出る『桜庭一樹 物語る少女と野獣』というムックの作業で、慌しく打ち合わせ。
 と、K子女史がぽろっと、「昨日、引越ししたんだけど、台所にうっかり、包丁5本忘れてきちゃった」「へぇ?」「取りに行きたいけど、包丁5本だけ持ってうろうろしてると、不審者に思われそうで」
 電話を切り、考える。
 包丁って一人暮らしで5本も持ってるものだっけ……?
 ちなみにうちは2本。そんなに小まめに種類を変えて料理するなんて、すごい達人だったのかな、と首をかしげ、仕事にもどりながら、なんとなく思いつく。
 もしも、それが多種類じゃなくて、ぜんぶおんなじ種類の包丁が5本、なぜか台所の包丁置きに整然と並んでたら?
 ふっ、と、真顔になり、自分の台所を振り返る(ワンルーム住まいなので、仕事机の後ろがもう台所。もぅ、せまいよー!)。
 自分の台所にそういうふうに刃物が並んでるところを想像する。
 こんな、オデコから生まれたような女(ちがうけど!)の部屋に。
 理由のわからないものが、整然と。
 人は、すぐそばにいる者のことも、ときには自分自身のことも、ほんとうはよくわかってなんかいないのかもしれない。狂気は笑顔の裏や背中や台所の扉の奥にいつだって隠れてる。もしかしたら、一生、隠れててくれるかもしれない。
 想像しただけで、怖くなって、だから、楽しくなる。あぁ、わたし女だな、と思う。
 さてこの日は、夕方から渋谷のペルー料理屋で、読売新聞の人(直木賞の待機のときザシキワラシだった人)とごはんを食べる約束をしていた。
 一時間半ぐらい早めに出て、渋谷の本屋を回る。ブックファーストに、旭屋に、リブロに……と思ったら、リブロを流していて顔見知りの書店員さんに会う。わたしをみつけると「あ、桜庭さん。いいの入りましたよ」と隅のほうに誘導していった。〈ユリイカ〉別冊「矢川澄子特集」を指差して、「2002年に出たやつで、なかなか重版かからなかったんだけど、ようやくかかったから多めに入荷しといたんです。ていねいな作りでいいですよ」「ふーん……(ぱらぱらして)あっ、ほんとだ」「となりにお兄ちゃん(渋澤龍彦)の書簡集もおきました。へへ」「おぉ、カラーページが多いのに3800円。すごい」「そのまたとなりに種村さんの本も!」「おぉー」
 気づいたら抱えてレジに並んでいた。しかし、本屋さんってこんな感じだったっけ? いまちょっと魚屋さんぽかった(「おっ、今日は鯵が新鮮だよ」「アラ頂くわ〜」的な)気がする。ほくほくと本屋を出る。
 紫の煙が立ち昇る地図を頼りに、大荷物で、渋谷の奥(もう森で道に迷ったみたい。フラフラ)のペルー料理屋にたどりつく。シナモンがかかったピスコサワーをくいくい飲む。エビと南瓜のグリーンスープが、どうして緑色なのかよくわからないけどけっこう美味しい。
 ザシキワラシを名乗った記者さんと、偉い人の二人がいる。偉い人は、昔の印刷技術のときは、新聞の仕事をして風呂に入るとお湯に黒いインクが浮いた、という話をしてくれる。あと、

偉い人「昔の本からは、匂いがしたね。だから買うと読む前にこうやって(開く真似)、嗅いだもんです」
わたし「わかる! わたしもやってました。インクの……」
偉い人「本によって匂いが違ってね」
わたし「えっ、そうなんですか。インクの種類が……」
偉い人「たとえば、いまでもよく覚えてるけど、壇一雄の『火宅の人』からはバターの匂いがした」
わたし「お、おぉー……(インクの話じゃなかった!?)」
 バターの匂いかぁ……。
 女の香り、修羅場の空気ってことかしらん。
 南米の赤ワインをあける。そういやこの店を選んでくれたのはわたしが南米文学好きだかららしい。なるほど。

偉い人「来年は、太宰治の生誕百年なんですよ。しかし同時に松本清張と大岡昇平の生誕百年でもある。この三人はじつは同い年だったのだ! びっくりだ!」
わたし「ほんと、意外ですねぇ」
偉い人「太宰は30代で夭逝。清張は40代からだから。この二人の接点をいまさがしてるんだけど、これが、なくてね〜」
わたし「確かに、絡みづらそうな三人ですね。鼎談とか想像できない」
偉い人「うん。しかし、清張も太宰を読んでたと思うんだけどなぁ」
 ご飯ものがほしくなったので「アンデス山脈のお弁当」というよくわからないメニューを頼む。写真を見てもよくわからないけど、米の上に茶色いものと黄色いものと目玉焼きが乗っている。あ、きた。ステーキと煮た豆だったのかぁ。あ、おいしい。
 偉い人、トイレから帰ってくる。何事か考えこみ、険しげな横顔を見せながら……。

偉い人「カタルシスって、やっぱり、“語る”と“死す”からきてるのかね?」
わたし「そりゃそうですよ!」
記者さん「……酔ってますか? 二人とも」
 その後、沖縄旅行で、海とか行かずに古本屋を回ったら、すごい掘り出し物が100円棚で山ほど買えた、という話になる。沖縄までは背取り屋さんが行かないのかもしれない。
 宝の山だ!
 バターのような。
 沖縄かぁ……。いいなぁ……。
 どっか行きたいな……。
 だいぶ酔って、そのあいだになにか仕事を引き受けたような気もしつつ、帰宅。
 風呂に入って、出てきて、床に転がった。
で、さいきん気に入ってて、今日も話題に出た辻原登の本を読んだ。『マノンの肉体』(講談社文庫)。
 発熱が続き、入院中に娘に朗読してもらった名作『マノン・レスコー』(って、すごい父娘だなー。家庭に知性と官能が)。娘の声に耳をかたむけながら、次第にわたしは、この小説にマノンの肉体描写が一切ないという謎に気づく。誰もが知っている、妖婦マノン。これがたとえばカルメンなら、黒髪に黒い瞳、真っ赤な瞳の情熱的なジプシー女で、椿姫なら……(なんだっけ。忘れた。月に25日は白い椿、5日は赤い椿を胸に挿してるんだっけ?)。作家自身を翻弄したという、実在のモデルがいたはずのマノン・レスコーに、なぜ「髪の色」「瞳の色」「肉体」などの記載が一切ないのか? そしてそれなのになぜわれわれ読者は匂うほどの官能をあの女の中に幻視することができたのか? わたしは娘の声に耳を傾け、枕元に座る娘と語り続けながらその謎を解いていく……。
『マノン・レスコー』といえばわたしは、アンリ・ジョルジュ・クルーゾー監督の映画『情婦マノン』を見てしまったから、その女優のイメージが抜けない。「なんでこの子をっ!」と膝から崩れ落ちるような、なんというかユーモラスな外見の三枚目女優で、声はというと頭頂部から雌鶏が出てきて「コケコッコー!」みたいな、映画史に残る素っ頓狂ボイス。二時間近くまったく納得できずに見てたんだけど、ラストシーン、マノンがコロッと死んじゃって主人公がその死体を背中に抱えて砂漠をさまよう怖ろしいシーンで、急に納得がいった。死んで、ひきずられたら、その女優はとんでもなくきれいだった。
 この小説で導き出された結論も、マノンの死が関わっていて、あぁやっぱり、とうなずいた。
 妖婦は死んでこそ妖婦。
 明日も忙しい! 寝る!
 朝から鳴るので、電話線を抜き、インターホンを切る(毎日、朝八時半に宅急便がくる……でもダメ人間だから昼まで寝ていたい……)。
 布団に潜り強く強く目を閉じる。
 と、誰かに沙漠を引きずられてもぜんぜん気づかないほど深くて寂しい眠りがきた。

(2008年7月)

桜庭一樹(さくらば・かずき)
1999年「夜空に、満天の星」(『AD2015隔離都市 ロンリネス・ガーディアン』と改題して刊行)で第1回ファミ通えんため大賞に佳作入選。以降、ゲームなどのノベライズと並行してオリジナル小説を発表。2003年開始の〈GOSICK〉シリーズで多くの読者を獲得し、さらに04年に発表した『推定少女』『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』が高く評価される。05年に刊行した『少女には向かない職業』は、初の一般向け作品として注目を集めた。“初期の代表作”とされる『赤朽葉家の伝説』で、07年、第60回日本推理作家協会賞を受賞。著作は他に『ブルースカイ』『少女七竈(ななかまど)と七人の可愛そうな大人』『青年のための読書クラブ』、エッセイ集『桜庭一樹読書日記』など多数。08年、『私の男』で第138回直木賞を受賞。最新刊は『荒野』。
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