小学生のころだろうか。向かいの家でスピッツを飼っていた。こいつは朝から晩まで吠えつづけていた。人にではない、近所のビルの屋上になびくアドバルーンに向かってだ。きゃんきゃんきゃんきゃんきゃん。夕方になると、吠えすぎで喉が嗄れてひゃんひゃんひゃんひゃんひゃん。「スピッツってバカだからね〜」お袋はあきれていた。スピッツがバカというよりその犬がバカだったんだろう。
そのうちスピッツが死んで別の犬を飼いはじめた。雑種みたいだったが、こいつはなかなか愛想があった。愛想がありすぎたのか、遊んでやっているとだんだん興奮してきて噛まれそうになったことがある。犬は好きだが、いまでもちと怖い。
あのころの夏は暑かった。エアコンなんてない時代。扇風機はあったか。夕食どき、親父は焼き鳥を肴に一杯やっている。ふと見ると、ガラス窓がすこ〜しあいていた。そこから雑種犬の鼻がのぞいてひくついている。「やると癖になる」親父が無視しているうちに鼻がひっこんだ。
がらがらがら、玄関から音がする。覗いてみると、雑種犬が前脚でガラス戸をこじあけ顔を突っこんでいた。さすがに遠慮しているのか、それ以上は入ろうとしない。ハアハアいいながら舌を垂らし、尻尾を振りまわしている。一本くらいくれてやってもよかろうに。「前のうちはエサやっとらんのか」親父は急いで焼き鳥を食べていた。
その雑種もしばらくして死んでしまった。「飼っても死んじゃうからね〜」お袋がよく言っていた。
犬を飼いたい。これが念願の夢だ。しかしマンション住まいなので叶わない。しかたないので亀を飼っている。吠えるでもなし芸をするでもなし、ただ餌を喰らって水槽のなかをじたばた動きまわるだけ。見ていて面白くもなんともないが情は移る。まあ、こっちがあの世に往くときは一緒に棺桶に入れてやろう。犬は入れさせてくれんもんな。亀もか。
犬は柴犬がいい。いかにもニッポンの犬。なるべく頭が悪くて目つきのよくないやつがいいな。いしいひさいち『ののちゃん』(『となりの山田くん』もか)のポチみたいな。柴犬でなければボーダー・コリーだ。こちらは牧羊犬。マージョリー・クォートンの『牧羊犬シェップと困ったボス』を読めばぜったい飼いたくなる。
これは「犬が書いた」お話。舞台はアイルランドの片田舎だ。飼い主のボスは農場主で、牧羊犬競技会(映画『ベイブ』に出てくるあれ)出場に意欲を燃やしている。血統書付きの賢く健気で勤勉なそれでいてちょっとトンチキなシェップは、議論口論乱痴気騒ぎ大好きで何かあるとすぐパブに飛んでゆくこのオヤジが大好きだ。
こんなシーンがある。イングランドでの牧羊犬競技会最終戦前夜、立派なホテルの晩餐会に招かれたときのことだ。
「食堂の入り口には黒いスーツの男がいて、ぼくがボスについて中に入ろうとすると立ちふさがった。『申し訳ありませんが、お客様、犬は入れません』男は言った。ボスは真っ赤になった。『犬は入れない? そりゃどういう意味だ? 犬が入れなきゃ人間も入らんし、晩餐もなしだ。おいで、シェップ』そう言うなり、ボスはつかつかと前進し、ぼくを従えてまっすぐ食堂に入っていった。そこにはぼく以外に犬はいなかった」
この二人(?)六脚コンビを中心に、犬と人間ない交ぜで揉めごと諍いごたごたが頻発。なにしろアイルランド人は、かつてイギリス連邦から独立を勝ち取ったとき、「これで安心して内輪もめができる」と快哉を叫んだ国民性の持ち主らしい(訳者あとがきより)。だったら犬だって。犬は飼い主に似るのだ。「スピッツってバカだからね〜」お袋の発言には底意があったな。
それはともかくこの小説、スラップスティックでも過剰さやあざとさや作為がない。なくてもクツクツ笑える。お涙頂戴や声高な動物愛護メッセージなんぞもない。ただの犬とただの人間が、ただ一緒に生活しているその「当たり前」さを描いているところに心地よい温もりがある。作者自身も農場を営んでいて、150頭の羊や6匹のボーダー・コリーらと暮らしているとか。きっと犬が好きで人間が好きで自国アイルランドが好きなんだろう。読んでいて自然と顔のほころぶ、ほんとにいい小説だ。
ミステリやSFやファンタジーやホラーといったジャンル小説ではないので、目に止まらなかった読者も多いはず。筆者もそうだった。エンタテインメント映画ばかり観ていて『WATARIDORI』を観逃すようなもんだ。こういう玉のような小説を見つけるのが読書の醍醐味なのに、もったいない。ドッグフードはけっこういけるらしい。犬にはもったいない。
ときどき近所で、下半身不随の老犬が散歩しているのに出くわすことがあった。下半身は車椅子にくくりつけられていて、前脚だけでよたよた歩いている。その後ろを、おじさんがのんびりついてくる。車椅子は飼い主のお手製らしい。この二人(?)四脚も「当たり前」だな。ここのところ見かけないが、どうしたんだろう。
いつか犬を飼おうと思う。
芸なんぞ仕込まない。お手とお坐りで充分だ。空き巣が来ても尻尾を振るワンコでいい。成犬になったら酒を呑ませてやろう。こちらがよいよいのジジイになったら、リードで引っ張って散歩させてもらおう。おたがい、それが筋ってもんだ。
(2006年5月)